以下は、『月刊/保険診療』2017年6月号に掲載された文章です。ご引用に際しては、掲載誌をご参照頂ければ幸いです。
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地域包括ケア政策の総括から共生社会へ(pdf版)
1. 地域包括ケア政策の停滞
2010年に『病院の世紀の理論』を上梓して以降,筆者は,地域包括ケアの理論的基盤を構築した研究者であると評されるようになったように思われる。それが正当な評価だったかどうかは筆者自身が判断すべくもないが,折に触れ筆者の示してきた見解の要諦を示せば,どのようなケアが良いケアとして社会的に評価されるかには,歴史的な大きな趨勢がみられ,20-21世紀転換期以降の大きな趨勢は,個人の生活的価値(QOL)を実現することを目指すケアへの評価が高まっていく方向にあるということであった。この歴史的潮流を筆者は「生活モデル化」と呼んできた1)。
政策的な含意としていえば,広義の福祉政策は一般的に,生活モデル化の歴史的潮流の方向に合致することが要請されるということになる。もし歴史が示す方向と異なる方向に政策を進めていくと,長期的には人々にとって不満足な福祉が実現してしまうか,修正のために多大な経済的・社会的コストを払うことになる。このような事態が生ずるわかりやすい例は少子化対策の失敗であろう。きわめて長期に渡って日本社会は,政策の失敗のツケを払い続けることになってしまった。
この観点から,地域包括ケア政策を評価すれば,基本的には歴史の潮流に合致している意味において正しい方向に進んでいると評価することができよう。その意味では,地域包括ケアはそれ自体が未来への投資としての資格を有している。
ただ,その一方で,地域包括ケア政策は,生活モデル化を推進すること自体を政策目的としては明示していない。地域包括ケア研究会の座長を務めてきた田中滋が,地域包括ケア政策とは「地域作りの目標を多義的に示した“公案”なのである。当然現実の取り組みが進展すると共に目標の表現も進化(変化?)していく」2)と述べたように,それは地域作りに関する様々な政策ニーズのプラットフォームであり,そこに一貫した政策目的を見出すことはできない。
このような地域包括ケア政策を全体としてどのように総括的に評価すればよいだろうか。
ここで考えておきたいのは,地域包括ケア政策は,介護保険政策の後継に位置づけられた政策だということであるが,この2つの政策には大きな違いがみられるということである。介護保険制度は,様々な批判は受けつつも,わずか数年のうちに,制度自体の存在価値を疑う人がほとんどなくなるほど,日本社会に不可欠な制度として定着していった。その意味では,介護保険政策は紛れもなく大成功の政策であった。これに対し,地域包括ケア政策は,それが本格的に推進されるようになって5年以上経つが,自治体関係者の間でもそれがいかなる政策であるのかについての共有が進んでいるとは言えず,まして国民の間では「地域包括ケア」という名称すら浸透してはいない。
この両者の違いは何に原因するのだろうか。筆者の理解では,この彼我の差は,すなわち地域包括ケア政策が生活モデルを原則とするものとして貫徹しなかったこと,およびその原因にあると考えている。以下では,この点を論じていきたい。
2. 地域包括ケア政策の目的喪失
少し振り返ってみよう。「地域包括ケア」が政策課題として明確なかたちで提起されたのは,地域包括ケア研究会による2009年報告書以降のことである3)。以降継続的に刊行されていった同会による一連の報告書をみると,基本的に,人口が高齢化するなかで,いかに効率的にケア需要を賄いつつ,同時に高齢者の生活的価値(QOL)を守るかということが議論されていたと言ってよいだろう。問題はこの構図が何を意味するかである。
まず留意しておくベきことは,「高齢化対策」という言葉には2通りの解釈があるということである。一つは,人口高齢化の主要な問題が,対応するシステムの効率化を要請しているという解釈である。この場合,高齢化対策とはケアシステムの効率化によって高齢化に対抗するという意味になる。これに対し,もう一つは,高齢化に伴う需要増に資源的手当をするということを対策とする解釈である。この場合,システムが結果として効率化しなくとも,どこからか資源を調達してきて高齢者に提供できればそれでよいということになる。
政策過程においては,初期には前者の可能性が追求された。地域資源を予防機能に活用する,ケアを地域に移すことによって急性期病院における不要あるいは不適切と考えられる医療費を抑制するなど,地域ケア化・包括ケア化することによる費用的なメリットをできる限り見出すことを通じて,ケアシステムの効率化が地域包括ケアによって実現するということを示そうという努力が行われたのである。だが,残念なことに,しだいに地域包括ケアは当初言われていたようなコストの抑制効果はなく,より効率的なケアシステムの構築という意味における高齢化対策とはならないということが明らかになっていった。
その結果,地域包括ケアは,高齢者を対象とした資源整備を中心としつつ,そのなかでできるだけ良好なケアが実現することに留意するといった内容の政策となったのである。だが,そうなると一つの大きな問題が生じてくることになる。すなわち,従前のケアシステムをわざわざ地域全体を舞台とするケアシステムに移行させる理由がわからなくなるのである。もし,例えば2025年までに介護需要を賄うための資源を整備することそれだけが課題であるのであれば,ケアを地域ベースに移行させることは正しい政策ではない。というのも,地域ケアに移行させることによって,大量の追加的なマンパワーが必要となり,人的資源調達はより困難になるからである。むしろ,地域包括ケアは構築しないことがよりよい対策になってしまうのである。
ケアシステムを地域ケア化することを正当化する根拠は,実は一つしかない。それは,地域的にケアすることが当事者の生活的価値を実現するうえで基本的に望ましいということである。この正当性は,生活モデル化が保証してくれるものである。だが,地域包括ケア政策においては,これまでのところ,生活モデル化によって政策を明確に根拠付けるということは行われていない。
3. 政策目的の喪失がもたらしたもの
では,地域包括ケア政策の目的が不明確であることによって,どのような現実の問題が起きたと言えるだろうか。以下少し立ち入って検討してみよう。
第1に,概して,地域包括ケアの実施主体とされた基礎自治体の熱意を引き出せなかったことである。地域包括ケアは従来,施設ケアの領域に集中していた支援を必要とする人々の地域への分散を伴うものであり,このようなケアを成立させるためには,大きな移動のコストと,移動の非効率化に伴うマンパワーの増強,さらにそれらの諸人材の密接な連携,さらには地域社会からの広範な協力の調達を必要とする(これらはすべてコストである)。その意味では,実施主体とされる自治体関係者にとってみれば,よほどのメリットが見えなければ,そのようなケアシステムを真面目に構築したいとは思わないだろう。高齢化対策になると言われても,目に見えて自分の町のケアシステムが非効率的になることがわかっている以上,それが説得力をもたないことは明らかであった。
第2に,政策目的が明確化されていなかったために,具体的な施策の是非,取捨選択を評価する準拠点が存在しなかったことである。地域包括ケアシステムは地域の実情に合わせて違うものを構築していくことが推奨されているため,施策の外形的内容を指定していくという方法は抑制された。このことは,指示されたとおりに事業を実施することに慣れていた自治体にとっては,「親離れ」にも似た困難ないし挑戦をもたらすものであったことは確かだが,それでも作り上げようとするシステムの性格から言えば,当然の方法であったとも言える。
ただし,施策の具体的内容が自治体の判断に委ねられる以上,具体的な施策の是非を評価する原則を指定しておかなければならない。ところが,政策目的が明確化されていなかったため,外形的な方法に替わって政策内容を規律する原則もまたはっきりしなかった。その結果,自治体関係者は,何をすれば地域包括ケアシステムを構築したことになるのか,という入口のところで困惑することになったのである。
逸話的な話を挟んで恐縮だが,筆者が地域包括ケアに関する講演に呼ばれた際,今日まで決まって示されてきた疑問は,「地域包括ケアシステムとは何でしょうか」というものであった。また,自治体によっては,地域包括ケアをケアの財政負担を引き下げるための制度であるとの解釈に基づいて,要介護認定率を引き下げるなど介護保険制度の外部に当事者を押し出すことを第一の政策目的と位置づけて施策を推進したところもあったように見える。これもケアシステム構築の原則が示されていないことに起因するもう一つのリスクであると言える。
第3に,目的が正当化できないにもかかわらず,地域包括ケア政策と高齢化対策がイメージとして結びつけられ続けたことで,ケアシステムの効率化にとって阻害要因になった可能性である。いわゆる「2025年問題」の喧騒を思い出してみよう。地域包括ケアを2025年までにシステムとして完成させることが,高齢化に伴う諸需要に備えることであるという主張がなされてきた。もちろん,介護需要などがこの時期以降にピークを迎えることは確実であり,それに向かって資源整備を進めておくことが必要であることは言うまでもない。だが,資源整備という観点からみても,地域包括ケアは,その基本的な性格からいって,むしろマンパワー不足を加速する方向に作用する。一方でマンパワー不足を加速しつつ,他方で地域住民や当事者家族の協力によって不足を賄おうという「行って来い」的な政策は,それ自体,将来予測されるマンパワー不足への対策になっていないと言わざるを得ない。
マンパワー不足を解決する方法は,労働力を増強するか労働生産性を上げるかのどちらかだが,このいずれに対しても政策的対応が遅れてきた。筆者には,地域包括ケアシステムの構築を高齢化対策の中核に位置づける政策思考が政策立案者を支配していたために,ケアの効率化という意味における高齢化対策は,地域包括ケア政策とは別に実施しなければならないという基本的な事実が等閑視され,独立したケアの効率化の必要性がカムフラージュされてしまったように見える4)。
現実主義的な観点からみて,筆者は労働力を外国から導入できる余地は小さいとみなければならないと考えている。長期的にアジア全体が高齢化していくなかで,ケア労働者のコストは継続的に上昇していくことは確実である。そのなかで,日本が,労働力を「買い負け」る傾向を強めていくことは避けられないからである。とするなら,対策の基本はテクノロジーによる生産性の上昇ということになろう。思うに,AI技術,自動運転技術,ロボット技術などは,将来のケアコストを大幅に引き下げることが期待できる。それをいち早くケアシステムとして確立したうえで,それを諸外国に売っていく。それによって,ケアの効率化のためのコストを回収していく。このようなビジネスを加速するような環境整備こそ高齢化対策に最も必要なものであるように思われるが,比較的最近までこの点への政策的関心は低調であった。とりわけ「2025年問題」の文脈においてはこのような論点がまったく議論されていなかったことは,地域包括ケアを巡る政策思考のなかに,ケアシステムを長期的に効率化していくための社会的投資の観点が希薄であったことを意味している。
4. 政策目的喪失の原因
ここまで地域包括ケアの目的の喪失とそれがもたらしたと考えられる問題について述べた。だが,実のところ上のように評することによって政策の成否を断じてしまうだけでは,地域包括ケア政策の総括としては,やや安易なやり方であろう。というのも,現実の政策過程において,当事者の生活的価値を高らかに目的に掲げて政策を推進できる政治環境がなかった可能性があるためである。
地域包括ケア政策の推進者たちが,上のような問題に鈍感であったとは思わない。筆者の印象では,彼らも信念としては,高齢者の生活的価値を実現する地域ケア政策を作り上げることこそが本政策の真の目的であると考えていたように思う。だが,現実にはこの点を最上位の目的に掲げて政策を推進することができなかった。それはなぜだろうか。
この点を考えるには,介護保険政策と地域包括ケア政策を比較してみるとわかりやすい。介護保険制度は,導入当初から今日に至るまで様々なきびしい批判を浴びてきているが,それでも比較的短時間で日本社会に根付き,介護保険制度自体が不要だという主張はほぼ消えることになった。その意味では,介護保険政策は紛れもない成功だったということができる。制度導入10年前のゴールドプランおよびその準備の期間を合わせて約15年にも及ぶ周到な準備も効いたと思われるが,なによりも重要だったのは,日本社会に存在していた切実かつ普遍性のあるニーズを的確なかたちで捉えたことであった。急速な人口高齢化のなかで,高齢者の介護を,それを当然の義務とする社会的風潮のなかで担っていた家族の負担は,それ自体が単に深刻・切実な問題であると同時に,誰もが直面し得るという意味で普遍的な問題であった。このため,その必要性は,介護保険制度が導入されてわずか数年で自明のものとして社会に広く認められたのである。
これに対し,地域包括ケア政策はどうか。介護保険政策と比較すれば,はるかに見劣りがするということは否めない。政策が本格的に推進されるようになって5年以上の時間が経つが,相変わらず地域包括ケアの必要性という入口のところで躓いたままである。
介護保険政策にあって,地域包括ケア政策に欠けていたもの。それは,あきらかに切実かつ普遍性のある社会的ニーズの捕捉であった。だが,地域包括ケア政策にとっては,ニーズの領域が高齢者に限定されていたために,そこには介護保険制度におけるのと同じレベルの普遍的で切実なニーズは存在していなかったのである。
他方,筆者のいう生活モデル化は,長期の歴史的趨勢である。そのなだらかな性格のゆえに,現在の政策を熱狂的に推進する燃料の役割を果たすことはできない。地域包括ケア政策の目標として,人々の生活的価値の実現を掲げたとしてもそれは,介護ニーズほどの訴求力をもつことはできない。
このような状況のなか,地域包括ケア政策の推進者たちが,現実的な判断として折衷的なプラットフォームとして地域包括ケアを売り出さざるを得なかったとしても不思議ではない。ただし,そのような曖昧な地域包括ケア政策の位置づけは,結果として,政策の方向性それ自体の正しさ(生活モデル化の観点からみて)にもかかわらず,国民の無関心,行政の不熱心,混乱,誤解,真に必要な高齢化対策の停滞という状況を生み出したと言えるのではないか。その意味では,地域包括ケア政策は,抜本的な再構築を必要とする時期に来ていると評価すべきであるように思われる。
5. 共生社会からの再出発
このような手詰まり感のある状況にあって提案されたのが共生社会論である。それは,2016年7月に「我が事・丸ごと」地域共生社会実現本部が厚労省に設置されて以降,議論が始まっているものであり,発表されている資料によれば,2020年頃から従来の地域包括ケアシステムを「深化」させるかたちで,多様な社会福祉施策と一体化しつつ統合的な地域ケアを順次構築していくということになっている。ここで重要なのは,この政策が,すべての世代・すべての生活課題を対象とする政策であり,それは高齢化対策よりもはるかにスケールの大きな生活保障政策の全体的な再構築に関する政策になり得る可能性を秘めているということである。
筆者の理解では,これは地域包括ケア政策にとって一つの好機であるように思われる。「共生社会論」のなかに地域包括ケアを再定位させることで,これまでのボタンの掛け違いを修正して,従来の高齢化対策としての政策から,より大きな生活保障の一翼としての政策へ位置づけ直すことのできる可能性があるからである。
当初の提案内容や,様々な検討会議で議論されている内容についてはひとまず措こう。今のところ萌芽的に過ぎるために,具体的な施策のレベルで課題をいちいち指摘しても仕方がない段階だからである。
そのうえで,ここではひとまず政策としての基本的な「素性」の良さについてのみ議論するが,まず第1に,地域包括ケアと同様に,共生社会において包含されるとされる生活困窮者自立支援制度,障害者総合支援制度,児童福祉,自殺対策,ホームレス自立支援制度などは,いずれも生活モデル化という政策的方向を共有する制度とみることができることから,一つの政策目的を共有する制度群として統合可能だということである。言い換えれば,共生社会に関する大きな政策を,全体として生活モデル化によって正当化することができるということである。と同時に,第2に,地域包括ケアにおいては高齢者のような特定のカテゴリーに施策を限定することによって困難となっていた,生活モデル的政策であると同時に、人々の切実かつ普遍的なニーズを捕捉することが,共生社会論のようにすべての世代,すべての生活困難に対象が広がることによって可能になるということである。
生活モデル化に合致しつつ,なおかつ人々にとって切実かつ普遍的なニーズ,そのようなものは見つかるか,と懐疑的な向きもあるかもしれない。もし見つからなければ,共生社会論の置かれる構図は,地域包括ケア政策と同じということになり,政策のスケールが大きい分,より困難に直面することになるだろう。その点から言えば,ここで政策の要請に適合しうる有力な候補が少なくとも一つは存在するということは示しておく必要があるかもしれない。
私の理解するところでは,戦後70年余に渡って張ろうとして張りきれなかったセーフティネットを,生活モデルの原則に沿って張り切ることを目指す政策は,その候補の一つであると思われる。戦後日本における広義の社会保障は,ナショナルミニマム(最低生活水準)を基準として,それ以下の経済水準の人々を最低限度まで引き上げる(救貧)とともに,社会保険などを活用して,最低限度以上の生活水準にある人々が最低生活水準以下に転落することを予防する(防貧)ことで,セーフティネットを張ることを目指してきた。だが,その結果として,①制度の隙間をすり抜けて困窮する人々,②ナショナルミニマム以下の生活水準にありながら支援を受けられない人々,③非経済的な理由で生活困難に陥る人々が各所に存在するという,およそ生存権保障の理念からかけ離れた不完全なセーフティネットしか張ることができなかった,ということは紛れもない事実である。
社会保障が不要であったということでは無論ない。だが,それは人々の抱える生活問題の全体からみれば,目立ったテーマを虫食い的にカバーできたに過ぎないとも言える。これに対して,共生社会政策は,全世代・全生活問題を対象とする政策であるから,少なくともこのような従来の社会保障の限界を明確なかたちで突破することが要請される(図表)。
誤解を恐れずに単純化して言うならば,従来の社会保障が突破できなかった生活問題の領域に広がっているのは,単に従来の社会保障が対象としてきた生活するための資源が不足しているということではない。むしろ,今日の生活困難は,自らが生きる途を独力で見つけ出していくことができないことにこそ起因している。例えば貧困のように,基本的には生活手段が不足していることが主要な問題に見えるような生活困難でも,ただ生活手段を提供すればそれで当事者が安定的に暮らしていけるようになるのではない。そこには,往々にして複雑に絡まりあった困窮の要因を解きほぐし,当事者にとっての着地点となり得る暫定的な支援目標を見出し,複雑な世界に立ち向かう意欲を回復させていく丁寧で時間をかけた支援が必要となる。このような支援は「寄り添い」とか「伴走」と呼ばれるものであり,これこそ本稿において繰り返し言及してきた生活モデルによる支援作法の中核的内容にほかならない。
図表
人生には様々な悩みや苦しみがつきまとう。おそらく誰でも,家族・仕事・友人関係・アイデンティティその他様々な契機から,他人には容易に明かせないような深い悩みや苦しみを抱え込む経験をするだろう。時としてそれは自身の努力によっても,また時には努力すればするほど状況がこじれていく。しかも,それらの生活上の問題は,必ずしも経済的な困窮に起因したり,帰着したりするわけではない。つまり,人生・生活とは貧乏人であれ,社会的な強者とみなしうる人であれ,誰でも困難になったり破綻したりしうるものなのである。
ここで,このような誰にでも降りかかりうる生活困難に対して,すべての当事者が必要に応じて,伴走的に支援する支援者を手にすることができれば,それは,戦後70年間の努力によっても張りきれなかったセーフティネットが,生活モデルに基づく新しい構想によって張り直されたということになるであろう。そしてそれは,共生社会というスケールの大きな政策に似つかわしい,切実かつ普遍的なニーズへの回答となるのではなかろうか5)。そして,筆者の理解では,地域包括ケア政策のなかで営まれた努力の成果を,上のようなビジョンに基づく共生社会政策の土台として流し込むことによって,高齢化対策という軛から地域包括ケアを解放することが,自然なかたちでできるように思われる。
6. 結語
地域包括ケア政策は,全体としては間違った方向の政策ではなく,おそらくは歴史的な検証のなかでその意義に一定の評価が与えられることになるであろう。ただ,同時にそれが今日踊り場に立ち至っている(停滞している)と認識され,またその理由に関しても同時に理解される必要があることも確かなことであろう。これまでの地域包括ケア政策をいかに引き継いでいくべきかについての議論が深まっていくことが期待される。
《文献》
1) 猪飼周平「地域包括ケアシステムの展望へ」(高橋紘士・武藤正樹編『地域連携論』オーム社,2013年,終章),猪飼周平「地域包括ケアの社会理論への課題」『社会政策』第2巻第3号2011年,猪飼周平『病院の世紀の理論』有斐閣,2010年。生活モデルをより厳密なかたちで述べたものとしては,猪飼周平「ケアの社会政策への理論的前提」『社会保障研究』1巻1号, 2016年がある。
2) 田中滋「超高齢社会における地域の力:地域包括ケアシステム構築にあたって」(医療政策会議報告書「高齢社会における経済的・文化的・医学的パラダイムシフト」2016)。
3) 地域包括ケア研究会「地域包括ケア研究会報告書 〜今後の検討のための論点整理〜」2009年。
4) この観点に基づいて行われた座談会が「通過点としての2025年:介護ロボットと自動運転のあるSFじゃない「地域包括ケア」の未来」『訪問看護と介護』Vol.20, No.1, 2015年であった。
5) この論点についてより立ち入った議論に関心のある方は,猪飼周平「ケアの社会政策への理論的前提」『社会保障研究』1巻1号, 2016年,猪飼周平「逆算的リアリズムからの生活保障」生活経済政策 (234), 5-10, 2016-07を参照されたい。また,これらとは別に,この論点を社会福祉の学説史との関係で述べたものとして,猪飼周平「「制度の狭間」から社会福祉学の焦点へ:岡村理論の再検討を突破口として」『社会福祉研究』 通巻122号, 2015年がある。
猪飼周平の細々と間違いを直すブログ
他人の間違いを指摘するブログではありません。主に、自分が何を解っていなかったり間違ったりしているのかについて、細々と綴ります。
2017年6月14日水曜日
2017年2月20日月曜日
映画「さとにきたらええやん」について
映画「さとにきたらええやん」。大阪釜ヶ崎にある「こどもの里」の子どもたちの日常を描いた作品。
2度拝見させていただいた。もとより映画なので、楽しんで鑑賞すればよいのだが、無粋な私にとっては、なにより「しんどさ」を抱える子どもへの寄り添い/伴走が決定的に重要であることを再確認する機会となったように思う。
「デメキン」こと荘保共子館長はいう。「わたし自身は、基本的に何もできないと思ってるんですよ。信じて見守る、そばにいるということしかできない。苦しみを代わってやることはできないし、彼女たちがすべてを話してくれるわけでもありません。でも「今、一緒にいる限り、あなたの言葉を信じて、自分を取り戻す作業につきあうよ」「あなたはあなたでいい。いるだけでいいんだよ」という気持ちをもって接しています。」(https://goo.gl/OCO4Wt)
また、子ども食堂関係者の前で、次のようにも述べている。子ども食堂もいい。ただ、そこに来る「しんどさ」を抱えた子ども1人に徹底的に付き合ってみてほしい、するといろんなことができてゆく、と。
(https://goo.gl/tcHwbY 45:00ごろから)
(https://goo.gl/tcHwbY 45:00ごろから)
一人一人違っている子どもの「しんどさ」に付き合っていくことで、1977年に「子どもの広場」として始まった活動は、子どもの遊び場としての機能を軸として、子ども・親を支える広範な活動を行う今日の「こどもの里」へと発展してゆく。
こどもの里の事業内容(公式ウェブサイト2017/02/20現在)
※大阪市留守家庭児童対策事業(学童保育)
※小規模住居型児童養育事業(ファミリーホーム)
※大阪市地域子育て支援拠点事業 (つどいの広場)
※児童自立生活援助事業(自立援助ホーム)
※自主事業≪緊急一時保護・宿泊所、エンパワメント事業、訪問サポート事業、中高生・障碍児居場所事業等≫
※大阪市留守家庭児童対策事業(学童保育)
※小規模住居型児童養育事業(ファミリーホーム)
※大阪市地域子育て支援拠点事業 (つどいの広場)
※児童自立生活援助事業(自立援助ホーム)
※自主事業≪緊急一時保護・宿泊所、エンパワメント事業、訪問サポート事業、中高生・障碍児居場所事業等≫
おそらく、今後児童福祉、社会的擁護領域において、こどもの里のタイプの施設は、広まってゆくだろう。ただ、そこで重要なことは、多様な機能を事業として備えた施設ができるだけでは子どもの里におけるような支援とはならないということである。というのも、こどもの里は、子ども1人1人に寄り添う/伴走することの結果であるからである。
政策論においては、いかにして制度を作るかということがもっぱら議論される。その中でどのような作法で支援が行われるかは、気にされておらず、制度があればまあまあの支援が行われるだろうと期待されている。つまり「作法は制度に従う」という前提である。
だが、こどもの里が示しているのは、その反対である。つまり、子どもに徹底的に付き合う=寄り添う/伴走することの結果として、ニーズを満たす制度が成立するということ、すなわち「制度は作法に従う」という原則こそがよい支援を成り立たせるということである。
寄り添い/伴走は、そのコミットメントの大きさから、そんなものを一人一人に保証していたら、生活支援など成り立たないし、そもそも、寄り添いに夢中になるような酔狂な人間はそんなにいないと思われるかもしれない。もちろん、寄り添い/伴走には大変な手間暇がかかることがあるのは事実である。だが、この映画は、そのような考えが、杞憂に過ぎないことを主張しているように思う。なぜなら、こどもの里が、子どもに関わろうとする人を巻き込む力に溢れているようにみえるからである。なんとなれば、魅力的なスタッフたち、そしてなによりデメキン自身が、とても幸せそうなのだ。
〜〜〜
私のように頭でっかちに鑑賞する必要は無論ない。ともかくも、子どもの里のエッセンスのつまった「さとにきたらええやん」、一度ご覧になることをお薦めしたい。
重江良樹監督によると、登場する子どもへの配慮から当分DVD等にする予定はないという。自主上映の予定については、公式Twitterにて随時更新されるので、そちらをご覧の上、上映会にゆかれるとよいと思う。
公式Twitter
https://twitter.com/sato_eeyann
https://twitter.com/sato_eeyann
館長荘保共子さんインタヴュー
http://www.jinken.ne.jp/flat_now/child/2006/04/07/1325.html
http://www.jinken.ne.jp/flat_now/child/2006/04/07/1325.html
以下は、「さとにきたらええやん」の公式パンフレットに掲載されている「「こどもの里」館長荘保共子さんのお話」からの引用である。ご参考までに。
「日雇い労働という形態が家族にあったから、それが生きることのしんどさに繋がっていましたね。今はそれが減って、母子家庭とか、親自身が病気を抱えていたりとかそういうケースが増えてきましたけど、こどもが親のしんどさを抱えて生きなきゃならないという状況は変わらないです。」
「子どもたちと付き合うということは子どもが生きていること、子どもの生活そのものと向き合い、それをサポートしていくことだと教えられました。」
「どんなにひどいとこちらが思う親でも子どもにとっては親は親。こどもは親が大切で大好きな「宝」なので、親を何とかしたいといつも思っている。だから子どもが生きるということは、親の生活、しんどさも知って親との関わりも大切になってくるんです。ここでは家庭はないけれど、家族がしっかりとあります。」
「子どもたちの様子は遊びを見ていればわかる。遊びを通じて、しんどい子はそのしんどさがわかってくる。SOSみたいなもので、不断一緒に遊んでいるからわかること。子どもたちもここなら、この人なら発信できると思ってくれたら発信してくれる。遊びの場、というのが今後の鍵になってくると思っています。…どんな年齢の子でも要は誰かに伝えたい、聴いて欲しいってことはあるので、それをキャッチすることが大切で、「こどもの里」はそれができる場だと思う。」
「私がここの子どもたちに出会って、自分の行き方自体を変えられたし。私の行き方を作ってくれたのは、ここの子どもたち。今のここの在り方も、子どもたちが必要だから。子どもたちが作ってきたと思っています。」
2016年6月25日土曜日
逆算的リアリズムからの生活保障
『生活経済政策』という月刊誌の本年7月号に掲載される予定の文章の草稿です。
【pdf版はこちら】
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逆算的リアリズムからの生活保障
猪飼周平
1. 逆算的リアリズムと生活問題の構図
J.M.ケインズは、かつて「わが孫たちの経済的可能性」と題する講演をしたことがある。そこでケインズは、経済問題は人類の永遠の問題ではなく、「わが孫たち」の生きる100年後には、経済問題一般が解決するか、少なくとも解決が視野に入っているだろうという見通しを述べた。大学院生時分この講演録に接した際、1930年すなわち世界恐慌が始まった翌年にこの講演が行われたという事実に驚くとともに、そもそも経済問題一般が解決した社会の姿をイメージしつつ経済学を構想していたことに、ケインズの偉大さを実感したことをよく記憶している。
もちろん、2030年にケインズのいうような社会が実現すると考えている人は、当時はもちろん、今日でもほとんどいないだろう。その意味では、ケインズの見通しは予言としては当たらないことになるであろうが、筆者に言わせれば、見通しの当否の類は大して重要ではない。むしろ、重要なのは、経済学が達成すべき究極の状態への展望から、具体的な政策やそのための理論を逆算的に導出しようとする観点—これを「逆算的リアリズム」といっておこう—をもつことが、展望のないただのリアリズムに飲み込まれないために必要であるということである。またそれこそが、世界中が恐慌に巻き込まれてゆく最中にあって、ケインズが一番言いたかったことであるようにも思われる。ケインズの『一般理論』は、当時の新古典派経済学の経済に関する捉え方からかけ離れたところから論理構築されているが、そのようなことが可能であったのは、ケインズがこの逆算的思考を基礎においていたからではないか、筆者はそのように思っているのである。
さて、筆者が前置きとしてケインズについて述べたのは、本稿で、生活問題を逆算的リアリズムの観点から捉え直してみようと考えているからである。先進各国が生活問題を政策による支援対象=社会保障の対象とみなすようになったのは、基本的には戦後のことである。ベヴァリッジ報告を社会保障の実質的な出発点とみなす通説的な理解によれば、それは、戦前までに発達した諸制度をパッケージして、最低水準の生活(主に経済生活についてだが)を国民に保障しようとする野心をもって戦後スタートした。社会保障およびその実施に責任をもつ国家=福祉国家は、幾多の批判や危機を乗り越え、今日でも「国民生活の安定」を支える根幹的存在であるとみなされている。
ところが、一度逆算的リアリズムの観点からみるとき、このような社会保障およびその拡充によって行う生活支援には明確な限界があることがわかってくる。すなわち、社会保障の限界は、おそらくは生活問題一般に対処するために必要な条件とは何か、という問題意識を持つことなく、目前に可視化された生活問題に対応することで満足しようとしている社会保障政策の現状によって画されていることがわかってくるのである。そしてそれは、世界恐慌の中で、長期的にみれば我々の世界が持続的に経済成長をし続けているという事実に目を向けることができないまま、足許の現実から悲観のみを引き出した当時の経済政策の現状と大きくは違わないのではないか。
とするなら、ケインズに倣って、生活問題一般を相手にすることができる社会保障—本稿ではこれを「生活保障」と呼んでおこう—の条件から、今日の社会保障のあり方を再検証することは決して無駄ではあるまい。そこで、以下では、ごく限られた紙幅ではあるが、そのような観点から、生活問題一般と社会保障との間のギャップとは何か、それを埋めるために何が必要かを考えてみたい。
2.生活保障の定義
もっとも、生活問題というだけではその意味内容が茫漠としているので、立ち入った考察を始めるまえに、生活問題のその中身を少し明確にしておく必要がある。ここでは操作的な観点から、生活問題を、当事者が独力で対処することができない生活上の困難を意味することにしよう。このとき、ケインズのいう経済問題は生活問題の一部を構成するが、経済問題が解消すればそれで生活問題が解決するわけではない。第1に、個人の経済問題は多くの場合、経済外的な様々な要因と結びつきあってひとまとまりの生活問題を構成しているので、経済問題の部分のみ解決したとしても生活問題自体が解決しない。第2に、仮に経済的問題が全く存在しない条件においても、家族関係・友人関関係・コミュニティ関係その他社会関係に関する問題、差別に関する問題、アイデンティティに関する問題、病気や障害に関する問題、自殺に関する問題、犯罪に関する問題などは原理的になくならない。したがって、生活問題一般の解決とは、経済問題の解消のさらに先にあるということになる。
さらに、生活問題の本態は、個々の生活上の要素や問題よりもその組み合わさった生活問題のあたかも生態系のように複雑な構図(エコシステム)の方にある。生活問題の「解決」は、必ずしも個別の問題の「解消」を意味しない。生活支援の現場にいるソーシャルワーカーたちが証言するように、多くの場合、本人をめぐる生態系のような諸要素の複雑な連関の構造を別の構造へと変化させることによって、生活問題の当事者がその問題を独力で取り扱えるようになることが着地点であり、あえていえば「解決」なのである。しかもその「解決」の形は試行錯誤の中で見出されるものであり、そこで発見されたある「解決」が一番よい「解決」であるかどうかはわからない。そしてなにより「解決」という状態自体が見つからないこともしばしばである。
その意味では、生活問題は経済問題と違って一般的な解決=問題状況の消滅は原理的にできないとみなさなければならない。したがって、逆算的リアリズムの出発点となる状態を生活問題一般が解決した状態とするのは経済問題一般の解決した状態(桃源郷)と違って具体的な意味内容をもたない。そこで、ここでは生活問題を抱える全ての当事者に対して、その生活問題のあり方に即した支援がともかくも届いている状態(生活上の困難を抱えているすべての人が放置されない社会)ということを、生活問題一般に社会が対応している状態とみなすことにしよう。そして本稿では、この状態を生活保障が実現している状態とみなすことにしよう。
3. 社会保障の限界
さて、本稿の意味における生活保障について、従来、国家はどのように関与してきたのだろうか。いうまでもなく今日この領域でもっとも大きな役割を果たしているのは社会保障である。よく知られているように、日本を含め先進諸国の多くでは、社会保障制度を整備することを通じて「国民生活の安定」を目指してきた。だが、社会保障はそれ自体が、実のところ生活保障からみれば程遠いものであるということをまず確認しておかなければならない。
そもそもベヴァリッジ報告で基軸となった考え方は、最低生活水準(ナショナルミニマム)を国民全体に保障する一方で、最低生活水準を超えた部分に関しては、自由な活動を妨げないように、なるべく国家の介入を控えようとするものだった。だが、現実の社会保障がそのような理念に基づいて制度化され、また運用されたかといえばそうではない。
ここで国際比較を踏まえて緻密な議論をする紙幅がないので、日本に限定して論ずるが、まず社会保障は、最低生活水準以下の暮らしをする人びとの多くに対して、最低生活水準の生活を普遍的に保障していない。最低生活保障を謳った憲法第25条が、プログラム規定的性格をもつもの(正確には抽象的権利説)として解釈されており、事実上底が抜けていることはよく知られていることだが、運用としても、生活保護の捕捉率が10-20 %とみられていることから明らかなように、最低生活の普遍的な保障は、あくまで建前のものとなっている。その意味では、最低生活水準以下の水準で暮らす人びとに対して、社会保障には「果たされない約束の領域」が広範に存在しているということになる。
また、最低生活水準以上についても、基本的には社会保険を軸とする経済生活の破綻のリスクを軽減することを通じて、貧困を予防する「防貧」的政策をその守備範囲とする一方で、それ以外の様々な生活上の問題については介入を差し控えてきたといえる。
その結果として、最低生活水準を保障することを主要な機能とするベヴァリッジ的な社会保障とも、生活問題一般に対応しようとする生活保障とも異なる領域に、現実の社会保障は定着したのである(図1)。
図1
ではなぜ社会保障は、このような姿になったのだろうか。この点については、社会保障論の領域においても、社会保障法の領域においても、明確な合意はない。むしろ性格を異にする諸制度の集合体であることを追認するような論理構築がなされているのが通説的であろう。だが、社会保障を生活問題一般の中における位置づけを考えるとその論理がよく見えてくるように思われる。
社会保障の支援方法は、さしあたり次の3つの特徴を含んでいる。第1に、富や所得の再分配を基軸としていることである。これは社会保障の主な標的が経済問題にあることを意味している。第2に、社会問題として抽出された問題別の解決を指向している点である。これは生活問題を抱えた人単位でなく、同じ問題を抱えた集団を政策の対象としているということである。第3に、施策の効果を統計的な観点から見ていることである。
実のところ、この3つの特徴を貫くのは、効率の観点である。第1と第2の特徴は、個々別々にみれば多様で複雑な内容をもっている生活問題を、カネの問題やその他の単純な問題に単純化して解釈し、さらに可能なかぎり単純で大勢の人を一挙に相手にできるような支援方法を指向していることを意味している。また第3は、第1と第2のような単純化を正当化する論理として、単純な方法で対応できないものは、支援効率が悪いものなので対応しなくてよいという功利主義的な立場に立っていることを意味する。問題を単純に把握して、単純な解決策を出し、取りこぼしは許容する、これこそが社会保障が理念はともあれ方法として採用してきた効率の論理にほかならないのである。
ということは、詰まるところ社会保障とは、その理念や権利性に従って形成されたというよりも、マスに対する生活支援として統計的・集団的に結果が出やすいところを虫食いにした結果として形成された支援領域ということになるのである。そして、結果として、図1の概念図が示すように、私たちの生活問題には、いまだ社会保障的な効率の論理では包含することのできない広大な領域が残されているのである。
4. 残された領域の生活問題
1970年代以降、生活問題の幅広い領域で緩やかではあるが確実に進行してきた変化がある。それが、生活問題は個別的で複雑な性格をもっているという認識の広がりである。このような生活問題認識を代表する概念が「社会的排除」である。
従来の社会保障は、たとえば「貧困」を「お金がない」「仕事がない」という意味に単純化し、現金給付や雇用創出という策で対応しようとしてきた。だが、貧困の要因の中にたとえばアルコール依存が関与している人に、やみくもに「お金」や「仕事」を提供しても状況が改善しないことはいうまでもない。当事者がどのような本人と環境の複雑な相互作用の中で困窮しているか、そのなかに飲酒がどのように関わっているのかを把握することなしに、当事者の状況を改善することはできない。社会的排除概念は、まさにこのような生活問題が複雑性・個別性を有しているという認識を主要部分として含む概念なのである。
実は、このような支援観の変化は、従来の社会保障にとって手の届かなかった、支援効率の相対的に低いとみなされてきた領域に対して支援しようとすればいかなるタイプの支援が必要であるかを示している、と同時に現代社会が挑むべき生活問題のフロンティアがそこにあるということを示しているといえる。
生活問題一般のうち社会保障が対応できなかった領域、すなわち、「果たされなかった約束の領域」にいる人びと、最低生活水準以上の生活水準にありながら生活に困難を抱えている人びとのいずれの場合も、支援するには、上記の複雑性・個別性に正面から立ち向かう必要がある。
一例をあげよう。図2は、自殺対策支援センターライフリンクが2008年に実施した調査の結果を図示したものである。調査によれば、既遂者について、自殺に至った要因は少なくとも70以上あり、平均して1人あたり4要因が複合的に影響していたという。これらには経済的な要素もあれば非経済的要素も含まれている。しかも、自殺の個別的要因については、大体のものについて何らかの支援窓口などがすでに存在していた。つまり、既遂者の多くが、行政などが設置した相談窓口の網の目をすり抜けて亡くなっていたということなのである。このことは、自殺問題が、従来の社会保障的なアプローチである、自殺に影響をおよぼしている個別の要因を取り出してそれに一律的に対応するやり方では対応できないこと、問題の本質が個別の問題の複合的構造それ自体にあることを示している。
しかも、当事者が自殺しないことは究極のゴールとはいえない。というのも、自殺が生きることの苦しみの果てに起きるのだとすれば、自殺させないようにするだけでは「生き地獄」を当事者に味わわせることにもなりかねないからである。したがって、当事者を支援する際に何を着地点とすべきかを「自殺しなければよい」のように一律に決めることはできないのである。
図2
出所:自殺対策支援センターライフリンク『自殺実態白書2008』
5.社会保障から生活保障に向かうために
本稿でいう生活保障の実現は、社会保障の延長線上に実現することはできない。仮に社会保障的方法で対象を拡張しても、単純化することのできない問題を単純に解決しようとすることによる弊害が起きるばかりで、本質的な支援にならないであろう。
もちろん、筆者は、社会保障それ自体が無意味などといっているのではない。それは今でも生活問題に立ち向かう根幹となるものである。そしてなにより、社会保障の出発点となったベヴァリッジ報告自体がまさにケインズその人の影響を強く受けていたことからもわかるように、本来社会保障は生活問題一般の解決を指向していたはずである。だが、今日の社会保障論議は、そのほとんどが生活保障を実現する見込みのない方法に固執しているといわざるをえないのである。そこには、私たちは何を目指して生活問題への対応を構想すべきなのか、そのために何をすべきなのか、という逆算的思考が決定的に欠如している。
では、具体的に何をすればよいのだろうか(もちろんこれがなければリアリズムにならない)。実は幸運なことに、「残された領域」の問題に対応する支援方法を新しく開発する必要はない。というのもソーシャルワークがそれだからである。ソーシャルワークは、生活問題が単純なゴールの見えない複雑な事象であることを認めた上で、当事者の生活を支えるべく寄り添う/伴走する支援方法である。したがってソーシャルワークによる支援の成立要件などの面倒な話を省けば、要はこのソーシャルワーク的支援が生活に困難を抱えるあらゆる人びとに届くようにすればよいのである。
日本では職業ソーシャルワーカーといえば、社会福祉士を思い浮かべる人が多いだろうが、彼らのような一握りの専門職だけで社会全体にソーシャルワークの網の目をかけることは現実的ではないし、費用的にも合わないであろう。むしろ、対人サービスに関わるあらゆる職種がソーシャルワークの能力を身につけること、さらには、全ての社会の成員がソーシャルワークの基本的素養を習得するように支援すること、そのようなソーシャルワークの網の目の構築に、市民社会、行政組織、法体系、そして社会保障を適応させることである。日本のようにソーシャルワークの社会的認知の低い社会にとっては、多少ハードルが高い社会目標ではあるかもしれない。だが、これが私たちの生活問題一般に対応した生活保障実現に必須の条件なのである。
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逆算的リアリズムからの生活保障
猪飼周平
1. 逆算的リアリズムと生活問題の構図
J.M.ケインズは、かつて「わが孫たちの経済的可能性」と題する講演をしたことがある。そこでケインズは、経済問題は人類の永遠の問題ではなく、「わが孫たち」の生きる100年後には、経済問題一般が解決するか、少なくとも解決が視野に入っているだろうという見通しを述べた。大学院生時分この講演録に接した際、1930年すなわち世界恐慌が始まった翌年にこの講演が行われたという事実に驚くとともに、そもそも経済問題一般が解決した社会の姿をイメージしつつ経済学を構想していたことに、ケインズの偉大さを実感したことをよく記憶している。
もちろん、2030年にケインズのいうような社会が実現すると考えている人は、当時はもちろん、今日でもほとんどいないだろう。その意味では、ケインズの見通しは予言としては当たらないことになるであろうが、筆者に言わせれば、見通しの当否の類は大して重要ではない。むしろ、重要なのは、経済学が達成すべき究極の状態への展望から、具体的な政策やそのための理論を逆算的に導出しようとする観点—これを「逆算的リアリズム」といっておこう—をもつことが、展望のないただのリアリズムに飲み込まれないために必要であるということである。またそれこそが、世界中が恐慌に巻き込まれてゆく最中にあって、ケインズが一番言いたかったことであるようにも思われる。ケインズの『一般理論』は、当時の新古典派経済学の経済に関する捉え方からかけ離れたところから論理構築されているが、そのようなことが可能であったのは、ケインズがこの逆算的思考を基礎においていたからではないか、筆者はそのように思っているのである。
さて、筆者が前置きとしてケインズについて述べたのは、本稿で、生活問題を逆算的リアリズムの観点から捉え直してみようと考えているからである。先進各国が生活問題を政策による支援対象=社会保障の対象とみなすようになったのは、基本的には戦後のことである。ベヴァリッジ報告を社会保障の実質的な出発点とみなす通説的な理解によれば、それは、戦前までに発達した諸制度をパッケージして、最低水準の生活(主に経済生活についてだが)を国民に保障しようとする野心をもって戦後スタートした。社会保障およびその実施に責任をもつ国家=福祉国家は、幾多の批判や危機を乗り越え、今日でも「国民生活の安定」を支える根幹的存在であるとみなされている。
ところが、一度逆算的リアリズムの観点からみるとき、このような社会保障およびその拡充によって行う生活支援には明確な限界があることがわかってくる。すなわち、社会保障の限界は、おそらくは生活問題一般に対処するために必要な条件とは何か、という問題意識を持つことなく、目前に可視化された生活問題に対応することで満足しようとしている社会保障政策の現状によって画されていることがわかってくるのである。そしてそれは、世界恐慌の中で、長期的にみれば我々の世界が持続的に経済成長をし続けているという事実に目を向けることができないまま、足許の現実から悲観のみを引き出した当時の経済政策の現状と大きくは違わないのではないか。
とするなら、ケインズに倣って、生活問題一般を相手にすることができる社会保障—本稿ではこれを「生活保障」と呼んでおこう—の条件から、今日の社会保障のあり方を再検証することは決して無駄ではあるまい。そこで、以下では、ごく限られた紙幅ではあるが、そのような観点から、生活問題一般と社会保障との間のギャップとは何か、それを埋めるために何が必要かを考えてみたい。
2.生活保障の定義
もっとも、生活問題というだけではその意味内容が茫漠としているので、立ち入った考察を始めるまえに、生活問題のその中身を少し明確にしておく必要がある。ここでは操作的な観点から、生活問題を、当事者が独力で対処することができない生活上の困難を意味することにしよう。このとき、ケインズのいう経済問題は生活問題の一部を構成するが、経済問題が解消すればそれで生活問題が解決するわけではない。第1に、個人の経済問題は多くの場合、経済外的な様々な要因と結びつきあってひとまとまりの生活問題を構成しているので、経済問題の部分のみ解決したとしても生活問題自体が解決しない。第2に、仮に経済的問題が全く存在しない条件においても、家族関係・友人関関係・コミュニティ関係その他社会関係に関する問題、差別に関する問題、アイデンティティに関する問題、病気や障害に関する問題、自殺に関する問題、犯罪に関する問題などは原理的になくならない。したがって、生活問題一般の解決とは、経済問題の解消のさらに先にあるということになる。
さらに、生活問題の本態は、個々の生活上の要素や問題よりもその組み合わさった生活問題のあたかも生態系のように複雑な構図(エコシステム)の方にある。生活問題の「解決」は、必ずしも個別の問題の「解消」を意味しない。生活支援の現場にいるソーシャルワーカーたちが証言するように、多くの場合、本人をめぐる生態系のような諸要素の複雑な連関の構造を別の構造へと変化させることによって、生活問題の当事者がその問題を独力で取り扱えるようになることが着地点であり、あえていえば「解決」なのである。しかもその「解決」の形は試行錯誤の中で見出されるものであり、そこで発見されたある「解決」が一番よい「解決」であるかどうかはわからない。そしてなにより「解決」という状態自体が見つからないこともしばしばである。
その意味では、生活問題は経済問題と違って一般的な解決=問題状況の消滅は原理的にできないとみなさなければならない。したがって、逆算的リアリズムの出発点となる状態を生活問題一般が解決した状態とするのは経済問題一般の解決した状態(桃源郷)と違って具体的な意味内容をもたない。そこで、ここでは生活問題を抱える全ての当事者に対して、その生活問題のあり方に即した支援がともかくも届いている状態(生活上の困難を抱えているすべての人が放置されない社会)ということを、生活問題一般に社会が対応している状態とみなすことにしよう。そして本稿では、この状態を生活保障が実現している状態とみなすことにしよう。
3. 社会保障の限界
さて、本稿の意味における生活保障について、従来、国家はどのように関与してきたのだろうか。いうまでもなく今日この領域でもっとも大きな役割を果たしているのは社会保障である。よく知られているように、日本を含め先進諸国の多くでは、社会保障制度を整備することを通じて「国民生活の安定」を目指してきた。だが、社会保障はそれ自体が、実のところ生活保障からみれば程遠いものであるということをまず確認しておかなければならない。
そもそもベヴァリッジ報告で基軸となった考え方は、最低生活水準(ナショナルミニマム)を国民全体に保障する一方で、最低生活水準を超えた部分に関しては、自由な活動を妨げないように、なるべく国家の介入を控えようとするものだった。だが、現実の社会保障がそのような理念に基づいて制度化され、また運用されたかといえばそうではない。
ここで国際比較を踏まえて緻密な議論をする紙幅がないので、日本に限定して論ずるが、まず社会保障は、最低生活水準以下の暮らしをする人びとの多くに対して、最低生活水準の生活を普遍的に保障していない。最低生活保障を謳った憲法第25条が、プログラム規定的性格をもつもの(正確には抽象的権利説)として解釈されており、事実上底が抜けていることはよく知られていることだが、運用としても、生活保護の捕捉率が10-20 %とみられていることから明らかなように、最低生活の普遍的な保障は、あくまで建前のものとなっている。その意味では、最低生活水準以下の水準で暮らす人びとに対して、社会保障には「果たされない約束の領域」が広範に存在しているということになる。
また、最低生活水準以上についても、基本的には社会保険を軸とする経済生活の破綻のリスクを軽減することを通じて、貧困を予防する「防貧」的政策をその守備範囲とする一方で、それ以外の様々な生活上の問題については介入を差し控えてきたといえる。
その結果として、最低生活水準を保障することを主要な機能とするベヴァリッジ的な社会保障とも、生活問題一般に対応しようとする生活保障とも異なる領域に、現実の社会保障は定着したのである(図1)。
図1
ではなぜ社会保障は、このような姿になったのだろうか。この点については、社会保障論の領域においても、社会保障法の領域においても、明確な合意はない。むしろ性格を異にする諸制度の集合体であることを追認するような論理構築がなされているのが通説的であろう。だが、社会保障を生活問題一般の中における位置づけを考えるとその論理がよく見えてくるように思われる。
社会保障の支援方法は、さしあたり次の3つの特徴を含んでいる。第1に、富や所得の再分配を基軸としていることである。これは社会保障の主な標的が経済問題にあることを意味している。第2に、社会問題として抽出された問題別の解決を指向している点である。これは生活問題を抱えた人単位でなく、同じ問題を抱えた集団を政策の対象としているということである。第3に、施策の効果を統計的な観点から見ていることである。
実のところ、この3つの特徴を貫くのは、効率の観点である。第1と第2の特徴は、個々別々にみれば多様で複雑な内容をもっている生活問題を、カネの問題やその他の単純な問題に単純化して解釈し、さらに可能なかぎり単純で大勢の人を一挙に相手にできるような支援方法を指向していることを意味している。また第3は、第1と第2のような単純化を正当化する論理として、単純な方法で対応できないものは、支援効率が悪いものなので対応しなくてよいという功利主義的な立場に立っていることを意味する。問題を単純に把握して、単純な解決策を出し、取りこぼしは許容する、これこそが社会保障が理念はともあれ方法として採用してきた効率の論理にほかならないのである。
ということは、詰まるところ社会保障とは、その理念や権利性に従って形成されたというよりも、マスに対する生活支援として統計的・集団的に結果が出やすいところを虫食いにした結果として形成された支援領域ということになるのである。そして、結果として、図1の概念図が示すように、私たちの生活問題には、いまだ社会保障的な効率の論理では包含することのできない広大な領域が残されているのである。
4. 残された領域の生活問題
1970年代以降、生活問題の幅広い領域で緩やかではあるが確実に進行してきた変化がある。それが、生活問題は個別的で複雑な性格をもっているという認識の広がりである。このような生活問題認識を代表する概念が「社会的排除」である。
従来の社会保障は、たとえば「貧困」を「お金がない」「仕事がない」という意味に単純化し、現金給付や雇用創出という策で対応しようとしてきた。だが、貧困の要因の中にたとえばアルコール依存が関与している人に、やみくもに「お金」や「仕事」を提供しても状況が改善しないことはいうまでもない。当事者がどのような本人と環境の複雑な相互作用の中で困窮しているか、そのなかに飲酒がどのように関わっているのかを把握することなしに、当事者の状況を改善することはできない。社会的排除概念は、まさにこのような生活問題が複雑性・個別性を有しているという認識を主要部分として含む概念なのである。
実は、このような支援観の変化は、従来の社会保障にとって手の届かなかった、支援効率の相対的に低いとみなされてきた領域に対して支援しようとすればいかなるタイプの支援が必要であるかを示している、と同時に現代社会が挑むべき生活問題のフロンティアがそこにあるということを示しているといえる。
生活問題一般のうち社会保障が対応できなかった領域、すなわち、「果たされなかった約束の領域」にいる人びと、最低生活水準以上の生活水準にありながら生活に困難を抱えている人びとのいずれの場合も、支援するには、上記の複雑性・個別性に正面から立ち向かう必要がある。
一例をあげよう。図2は、自殺対策支援センターライフリンクが2008年に実施した調査の結果を図示したものである。調査によれば、既遂者について、自殺に至った要因は少なくとも70以上あり、平均して1人あたり4要因が複合的に影響していたという。これらには経済的な要素もあれば非経済的要素も含まれている。しかも、自殺の個別的要因については、大体のものについて何らかの支援窓口などがすでに存在していた。つまり、既遂者の多くが、行政などが設置した相談窓口の網の目をすり抜けて亡くなっていたということなのである。このことは、自殺問題が、従来の社会保障的なアプローチである、自殺に影響をおよぼしている個別の要因を取り出してそれに一律的に対応するやり方では対応できないこと、問題の本質が個別の問題の複合的構造それ自体にあることを示している。
しかも、当事者が自殺しないことは究極のゴールとはいえない。というのも、自殺が生きることの苦しみの果てに起きるのだとすれば、自殺させないようにするだけでは「生き地獄」を当事者に味わわせることにもなりかねないからである。したがって、当事者を支援する際に何を着地点とすべきかを「自殺しなければよい」のように一律に決めることはできないのである。
図2
出所:自殺対策支援センターライフリンク『自殺実態白書2008』
5.社会保障から生活保障に向かうために
本稿でいう生活保障の実現は、社会保障の延長線上に実現することはできない。仮に社会保障的方法で対象を拡張しても、単純化することのできない問題を単純に解決しようとすることによる弊害が起きるばかりで、本質的な支援にならないであろう。
もちろん、筆者は、社会保障それ自体が無意味などといっているのではない。それは今でも生活問題に立ち向かう根幹となるものである。そしてなにより、社会保障の出発点となったベヴァリッジ報告自体がまさにケインズその人の影響を強く受けていたことからもわかるように、本来社会保障は生活問題一般の解決を指向していたはずである。だが、今日の社会保障論議は、そのほとんどが生活保障を実現する見込みのない方法に固執しているといわざるをえないのである。そこには、私たちは何を目指して生活問題への対応を構想すべきなのか、そのために何をすべきなのか、という逆算的思考が決定的に欠如している。
では、具体的に何をすればよいのだろうか(もちろんこれがなければリアリズムにならない)。実は幸運なことに、「残された領域」の問題に対応する支援方法を新しく開発する必要はない。というのもソーシャルワークがそれだからである。ソーシャルワークは、生活問題が単純なゴールの見えない複雑な事象であることを認めた上で、当事者の生活を支えるべく寄り添う/伴走する支援方法である。したがってソーシャルワークによる支援の成立要件などの面倒な話を省けば、要はこのソーシャルワーク的支援が生活に困難を抱えるあらゆる人びとに届くようにすればよいのである。
日本では職業ソーシャルワーカーといえば、社会福祉士を思い浮かべる人が多いだろうが、彼らのような一握りの専門職だけで社会全体にソーシャルワークの網の目をかけることは現実的ではないし、費用的にも合わないであろう。むしろ、対人サービスに関わるあらゆる職種がソーシャルワークの能力を身につけること、さらには、全ての社会の成員がソーシャルワークの基本的素養を習得するように支援すること、そのようなソーシャルワークの網の目の構築に、市民社会、行政組織、法体系、そして社会保障を適応させることである。日本のようにソーシャルワークの社会的認知の低い社会にとっては、多少ハードルが高い社会目標ではあるかもしれない。だが、これが私たちの生活問題一般に対応した生活保障実現に必須の条件なのである。
2016年6月7日火曜日
「地域包括ケアの歴史的必然性」映像版出来
亀田総合病院地域医療学講座から『地域包括ケアの課題と未来』というレクチャーシリーズが、2015年に書籍として刊行されました。
この間、様々な困難があったやに伝え聞いていますが、小松秀樹さん、熊田梨恵さんをはじめとする様々な方々のご尽力で、書籍化と同時に撮っていた映像版もこの度公開になりました。
私のレクチャー部分(10分程度)が、公開されたのでご紹介まで。
「地域包括ケアの歴史的必然性」映像版(10min)
http://www.socinnov.org/blog/p547
http://www.socinnov.org/blog/p547
「地域包括ケアの歴史的必然性」文書版
小松秀樹・小松俊平・熊田梨恵[2015]『地域包括ケアの課題と未来』ロハスメディア
http://goo.gl/9qS7F4
2016年3月7日月曜日
生存権と平和をつなぐもの
鉄道弘済会の『社会福祉研究』の編集委員をしている関係で、時々「巻頭言」の執筆が回ってきます。次の文章は、次号第126号のために用意した草稿です(2016年7月刊行予定)。
---------
【巻頭言】生存権と平和をつなぐもの(草稿)
以下は、社会福祉職を目指す大学生大澤茉美の文章である。
「ある女の子は、奨学金の返済に追われ、おなかの子どもを堕ろした。シングルマザーでは今の世の中をとても生きていけないと、一緒に制度を調べ、パソコンの画面の前で泣いた。・・・彼女が生みたかった子どもは、もう死んだ。たった一人の子を産み育てることを許さなかった政治が、いま安全保障関連法案を成立させようとしている。すでに数え切れないほどの命を見殺しにしてきた政権が、「安全」を「保障」すると謳う法案に無邪気に賛成できるほど、私をとりまく世界はすでに安全ではない」(『現代思想』2015年10月臨時増刊号)。
昨年8月、「戦後70年目の8月15日によせて」と題する社会福祉系学会会長の共同声明が出されたことはご記憶だろうか。安保関連法案に対して危惧を表明するものであったが、私はどこか言いたりないことがあるように感じていた。というのも、声明が「危惧」として表明していたことは、煎じ詰めれば、戦争になれば社会福祉が脅かされるという自明の事柄だったからである。私たちがあのとき社会や国家に訴えたかったこととは、そういうことをだったのだろうか。
→共同声明
http://www.jaass.jp/archives/831
思うに、戦後70年間を通じて、日本の社会福祉が感得してきたもの、その最も重要なものは、一人一人の日々の暮らしのかけがえのなさではなかったか。だからこそ、私たちは、人びとの暮らしを支えようとしてきたのではなかったか。とするなら、私たちが言いそびれたこととは、もしかすると、人びとの命や暮らしがいかに重いかということであり、私たちがすべての政治家に問うべきだったこととは、この命や暮らしの重さをよくよく踏まえたうえで、法案の審議に向かっているのか、ということではなかっただろうか。
私のような国際関係論の素人には、法案が成立したことによって安全保障にどのような影響があるのかわからない。だが、そんな私にも明瞭なこともあるように思う。それは一人一人の命や暮らしの重みを知ることではじめて、私たちは戦争の手前で踏みとどまることができる、ということであり、それを知らない政治家がいるとすれば、彼らに平和を語る資格はない、ということである。
このことを、社会や国家に不断に発信してゆくこと、それは社会福祉に関わる者にこそできることであると同時に、昨年来の宿題として持ち越されてきたことでもあるように、私には思われる。
---------
【巻頭言】生存権と平和をつなぐもの(草稿)
以下は、社会福祉職を目指す大学生大澤茉美の文章である。
「ある女の子は、奨学金の返済に追われ、おなかの子どもを堕ろした。シングルマザーでは今の世の中をとても生きていけないと、一緒に制度を調べ、パソコンの画面の前で泣いた。・・・彼女が生みたかった子どもは、もう死んだ。たった一人の子を産み育てることを許さなかった政治が、いま安全保障関連法案を成立させようとしている。すでに数え切れないほどの命を見殺しにしてきた政権が、「安全」を「保障」すると謳う法案に無邪気に賛成できるほど、私をとりまく世界はすでに安全ではない」(『現代思想』2015年10月臨時増刊号)。
昨年8月、「戦後70年目の8月15日によせて」と題する社会福祉系学会会長の共同声明が出されたことはご記憶だろうか。安保関連法案に対して危惧を表明するものであったが、私はどこか言いたりないことがあるように感じていた。というのも、声明が「危惧」として表明していたことは、煎じ詰めれば、戦争になれば社会福祉が脅かされるという自明の事柄だったからである。私たちがあのとき社会や国家に訴えたかったこととは、そういうことをだったのだろうか。
→共同声明
http://www.jaass.jp/archives/831
思うに、戦後70年間を通じて、日本の社会福祉が感得してきたもの、その最も重要なものは、一人一人の日々の暮らしのかけがえのなさではなかったか。だからこそ、私たちは、人びとの暮らしを支えようとしてきたのではなかったか。とするなら、私たちが言いそびれたこととは、もしかすると、人びとの命や暮らしがいかに重いかということであり、私たちがすべての政治家に問うべきだったこととは、この命や暮らしの重さをよくよく踏まえたうえで、法案の審議に向かっているのか、ということではなかっただろうか。
私のような国際関係論の素人には、法案が成立したことによって安全保障にどのような影響があるのかわからない。だが、そんな私にも明瞭なこともあるように思う。それは一人一人の命や暮らしの重みを知ることではじめて、私たちは戦争の手前で踏みとどまることができる、ということであり、それを知らない政治家がいるとすれば、彼らに平和を語る資格はない、ということである。
このことを、社会や国家に不断に発信してゆくこと、それは社会福祉に関わる者にこそできることであると同時に、昨年来の宿題として持ち越されてきたことでもあるように、私には思われる。
2016年2月22日月曜日
ヴァージニア・ヘンダーソンについて
ヴァージニア・ヘンダーソンのBasic Principles of Nursing Care( 1960) ( 『看護の基本となるもの』) は、 日本でも1961年に邦訳されて以降、 永く読み継がれてきている。 ただ、 本書の通説的解釈と実際に読んだ時の印象との間にかなりの乖離があることは確認しておく必要があるだろう。
ヘンダーソンは、少なくとも本書を読む限り、通説のように人間の基本的ニードが14段階に分かれるとは言っていない。第2章「人間の基本的欲求およびそれらと基本的看護との関係」の中で、人間の基本的欲求(fundamental human needs)と基本的看護との間に重要なズレがあると言っているのである。
ヘンダーソンによれば、看護が人間の基本的欲求に根ざしていることは一般に認めらるが、その「要素となる欲求は、社会学者や哲学者によって分類され是認されているが明らかに単純化されすぎており、繰り返しくつがえされてきた。文化が異なれば人間の欲求も異なった形で現れ、また各人はそれぞれなりに欲求を表現する。」「人間には共通の欲求があると知ることは重要であるが、それらの欲求がふたつとして同じもののない無限に多様の生活様式によって満たされているということも知らねばならない。このことは、看護師がいかに賢明でも、またいかに一生懸命努めようとも、1人ひとりが求めることすべてを完全には理解できないし、その人の充足感に合致するように要求を満たすこともできない、ということを意味している。看護師にできるのはただ、看護師自身が可が得ている意味ではなく、看護を受けるその人にとっての意味における健康、その人にとっての意味における病気からの回復、その人にとっての意味におけるよき死、に資するようにその人が行動するのを助けることである。」邦訳pp. 17-18
ここには、ヘンダーソンのケアについての深い洞察、看護の限界についての謙虚な認識が示されている。彼女のいう基本的看護とはその限界を前提として提示されたポジティブリストであると理解すべきだろう。私の理解する限り、彼女の基本的ケア観は生活モデル的である。
2015年5月28日木曜日
地域包括ケアクイズ
ここ1,2年の間に地域包括ケアに関する知識・情報発信のあり方は、大きく変化してきているように思います。その最大の理由は、このテーマに正面から取り組む実践家たちが多く現れたことにあるでしょう。私が学術的な研究から引き出した政策的な主張についても、彼らはそれを踏まえた上で自らの実践の中で、より具体的な知識に消化しようとしているように感じています。その意味では、象牙の塔の住人がしてきた抽象的な議論は、そろそろ実践の渦の中に消えゆく時期に来ているように思います。
このような思いの中で、ここしばらく、地域包括ケアについてどのようなけじめとなる議論ができるだろうか、と考えておりましたが、ふとクイズを残すということを思いつきました。地域包括ケアに関わる方々に、私が前提として頂ければと考えてきた内容をクイズ形式で示しておくことで、チェックリスト的に使えると思います。よろしければ、以下の20問にチャレンジしてみてください。ただし、いずれも正解は、私の認識する正解だということですので、この点は誤解なきよう。
なお、解答は示しませんが、正解の選択肢には著しい規則性があります。なお、クイズの作成にあたっては、東埼玉病院の中野智紀さんに相談させて頂きました。ご協力に感謝いたします。
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【地域包括ケアクイズ】
Q1 ヘルスケアの目的について、次のうち正しいものを選んで下さい。
①
病人を死の淵から救い出すこと。
②
寿命を延ばしたり、健康寿命を延ばしたりすること。
③
病人を含む当事者の生活的価値を実現(QOLを増進)すること。
Q2 地域ケアの根拠として相応しいものを選んで下さい。
①
退院患者の受け皿を用意することで急性期病院の効率を上げるため。
②
ケア負担を地域社会や家族に負わせることで高齢社会における財政危機を緩和するため。
③
当事者の生活的価値の実現にとっての条件に恵まれているため。
Q3 生活モデルに近い意味をもたない言葉を選んで下さい。
①
キュアからケアへ
②
全人的医療
③
リハビリテーション
④
社会的排除/社会的包摂
⑤
ナショナルミニマム
Q4 生活モデルと医学モデルの関係について正しいものを選んで下さい。
①
生活モデルは生活的価値を実現することに目的を限定しているので、救命・治癒を目指す医学モデルとは別である。
②
生活モデルと医学モデルはそれぞれ目的が異なるので、上手に連携させればよい。
③
生活モデルでは、生活的価値が救命・治癒の上位の目的となるので、医学モデルは生活的価値実現のための手段の1つに位置づけられる。
Q5 生活モデルの要素であるエコシステム的因果観についての説明として正しいものを選んで下さい。
①
生活モデルでは、地球環境への考慮こそが生活的価値を実現する上での基盤だと考える。
②
生活モデルでは、当事者の健康の原因は、本人に帰せられるべきではなく、社会的条件に帰せられるべきであると考える。
③
生活モデルでは、当事者の健康は、無数の環境的因子や本人の素因が相互に影響し合った結果に規定されると考える。
Q6 生活モデルの由来についての説明として正しいものを選んで下さい。
①
生活モデルは、1970年代に提唱された、これまでのケアの常識を覆す新しいケアモデルであり、ケア革命を引き起こすものである。
②
生活モデルは、言葉としては1970年代に提唱されたものであるが、その基本的内容は古今東西どの社会においても当たり前に存在するごくありふれたものにすぎない。
Q7 生活モデルが浸透しつつある範囲として正しいものを選んで下さい。
①
高齢者ケア全領域
②
ヘルスケア全領域
③
ヘルスケアを含む福祉領域全体
Q8 生活モデルと社会的排除概念の類縁性についての説明として間違っているものを選んでください。
①
生活的価値の実現を目指すための概念であるところ。
②
当事者の置かれている状況を特定の要因に単純化して考えるのではなく、多様な要因の複雑な絡み合いとして理解しようとするところ。
③
どちらもナショナルミニマムを実現するために有効な手段であるところ。
Q9 地域包括ケアの歴史の認識として正しいものを選んで下さい。
①
「地域包括ケア」という言葉は1980年代に提唱されたものなので、その歴史は30年程のものであるとみなしてよい。
②
地域包括ケアが厚生労働省の政策となったのは、2010年代なので、その歴史も数年であるとみなしてよい。
③
地域において狭い意味での医療に拘らずに患者を支援する活動は、いつ時代にも存在していた普遍的な活動であり、その意味で地域包括ケアは実質的に非歴史的なケアであるといえる。
Q10 在宅ケアの位置付けについて間違っているものを選んで下さい。
①
当事者の生活的価値を実現しようとする際に、選択される蓋然性の高い手段が在宅ケアであり、その意味では、在宅ケア化は生活モデルにもとづく支援実践の結果として起きることである。
②
在宅ケアが家族の元で行われる場合、時として当事者・家族の生活に厳しい困難がもたらされることもあることを踏まえ、当事者だけでなく、家族に対しても充分な支援がなされる必要がある。
③
生活者は在宅でケアを受けることが望ましいので、地域包括ケアにおいては在宅ケアが原則である。
Q11 地域包括ケアにおける病院制度の位置付けについて正しいものを選んで下さい。
①
病院の世紀が終焉を迎えた今日、地域包括ケアにおける病院は長期的に解体する運命にある。
②
病院の世紀の終焉は、医学の敗北を意味してはおらず、病院の使命は失われていない。
Q12 地域包括ケアにおける住民自治について正しいものを選んで下さい。
①
地域包括ケアのシステム設計には各種制度についての専門的知識が必要のため、専門家主導で構築するのがよい。
②
地域包括ケアにおける住民自治とは、住民がヘルスケアを支える存在に変わることを意味する。
③
地域包括ケアにとって住民は、ケアに必要となる社会資源ではあっても意思決定主体ではない。
④
どのような地域包括ケアを選択するかは、当事者ともなり、支援者ともなる地域住民の主体的決定に基づく必要がある。
Q13 ケアの生活モデル化と地域包括ケア化の関係として正しいものを選んで下さい。
①
地域包括ケアは人口高齢化への政策的対応であることから、高齢者以外の当事者へのケアとは基本的に区別される。
②
福祉全領域で進行しつつあるケアの生活モデル化の部分的現象として地域包括ケア化があることから、地域包括ケアにおいて適用されるケア原則は、高齢者以外のあらゆる生活問題と共通する。
Q14 地域包括ケアとまちづくりの関係について間違っているものを選んで下さい。
①
地域包括ケアは、当事者と支援者の双方が協働することで円滑に作動するものであることから、まちづくりと相通ずるところが大きい。
②
地域社会にも地域エゴなど負の側面が存在しており、地域でケアすれば自動的に住民全体が包摂されるという保証はないので、地域包括ケア構築に際しては、そのようなマイノリティへの配慮があわせて必要となる。
③
まちづくりは住民自身の活動であるのに対し、地域包括ケアは基礎自治体が実施主体であるから、そもそも両者は似ていない。
Q15 生活的価値(QOL)について正しいものを選んでください。
①
当事者の生活的価値は、本人が一番よく分かっていると考えられる。
②
当事者の生活的価値は、科学的な方法によって客観的に測定することが可能である。
③
当事者の生活的価値は、オプティマムのレベルでは主観的にも客観的にも測定することができない。
Q16 自己決定についての理解として間違っているものを選んで下さい。
①
自己決定とは、当事者の意思決定を、本人以外の影響を排除して本人だけの力で決定したものとみなすという一種の仮構である。
②
自己決定とは、当事者の意思決定の責任を当事者本人に帰属させるという、結果の責任を社会的に分配する1つの方法である。
③
自己決定とは、当事者の尊厳を守る上で普遍的な重要性を有していることから、ケアにおける第1の原則とされるべきものである。
Q17 多職種連携の方法について正しいものを選んで下さい。
①
医療系職種と福祉系職種では使う用語に違うので、医療系職種から福祉系職種への情報を流す場合は、福祉系職種が理解可能な内容に限定して行うべきである。
②
当事者の生活的価値の実現を支援することが生活モデル的ケアであることから、当事者の生活ニーズを最もよく知る職種を中核として他の職種がそれをサポートするのが基本である。
Q18 多職種連携の方法として正しいものを選んで下さい。
①
多職種連携に際しては、機能的な重複を避けるために、責任と権限の範囲を明確にするのが効率的である。
②
多職種連携に際しては、当事者へのケア目標を共有した上で、連携チームのそれぞれが自分がすべきことを判断する方が、多様な生活ニーズに即応する上で好ましい。
Q19 2025年問題についての認識として正しいものを選んで下さい。
①
2025年までに地域包括ケアシステムを完成させないとケアシステムが崩壊してしまうかもしれないので、とにかく急がなければならない。
②
ケアの生活モデル化はそれ自体として、生活モデル的なケアを文化として根付かせる過程であるから、2025年問題は、ケアニーズの増大への準備として重要であるとしても、あくまで通過点に過ぎない。
Q20 中山間地域における地域包括ケアについて間違っているものを選んで下さい。
①
地域包括ケアは、地域の財政力に応じたシステム構築が可能なので、中山間地域の方が不利であるとは一概にいえない。
②
中山間地域では都市部にくらべて強固な地域連帯がある場合が多いので、この点は地域包括ケアの構築に際して有利な点である。
③
地域包括ケアシステムを構築するのには大きなコストがかかるので、それが難しい中山間地域に住む場合は地域包括ケアが構築できないことを覚悟の上で住まなければならない。
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