2015年5月9日土曜日

タイガーマスクでは終わらせない

私にとって4月は大変な月でした。というのも、ジャーナリストの大熊由紀子さんが主宰されているえにしの会という、主に医療福祉畑に関心をもつ実践家、行政家、政治家、学者、ジャーナリストなどからなる集まりの年次集会のコーディネーターをする羽目に陥っていたからです。今年はテーマが地域包括ケアであったこともあって、私にお声がかかったのだと思いますが、やはり静かに学者をやっているのが性にあっている、とつくづく思う機会となりました。

ただ、転んでもタダで起きてはつまらないということで、集会にあたって「タイガーマスクでは終わらせない」と題して、地域包括ケアに関心をもって集まってこられた方々に社会的養護に関心を喚起することを目的としたパンフレットを作成して配布することにしました。

以下は、パンフレットに私が書いた小文です。

えにしの会についてはこちら
資料付きパンフレット(当日配布)はこちら
厚生労働省「社会的養護の課題と将来像の実現に向けて」はこちら

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タイガーマスクでは終わらせない: 地域包括ケアと一緒に考える社会的養護


1.美談としてのタイガーマスク現象

みなさんは、「タイガーマスク現象」をご記憶でしょうか。2010年の年末に「伊達直人」を名乗る匿名の人物が、群馬県中央児童相談所にランドセルを寄付するということがあり、それがメディアに取りあげられたことで、その後次々に児童相談所や児童福祉施設に匿名での寄付が行われたあの現象です。2011年3月に東日本大震災が発災したことで、ブームは消し飛んでしまったのですが、テレビその他の媒体で、ずいぶん「美談」として流布しましたので、覚えていらっしゃる方も多いのではないかと思います。

それにしてもなぜこれが「美談」として語られたのでしょうか。そもそも、ある事柄が美談となるとは、それが道徳的にみて純粋に美しい話、心温まる話であることを意味しています。たとえば、構造上の欠陥のために危険な交差点があったとして、車に轢かれそうになっていた子どもを身を挺して救った人があったとしましょう。このような話は決して美談になりません。むしろ、そのような危険な交差点を放置していた行政の無為が告発されることになります。つまり「伊達直人」が美談として語られたということは、社会的養護を必要とする子どもの置かれている境遇について、美談として語る社会の側には責任がないという認識が暗黙のうちに前提とされていたということを意味します。

とするならば、仮に施設の子どもたちがランドセルを買うことさえもできないとしても、そのことについて、社会の側には責任がない、という前提的認識がこの「伊達直人」の行為の美談化の背景には存在しているということになります。実際には、施設の子どもたちがランドセルくらいは皆もっていることを考えれば、現実の施設における養育水準よりもさらに低い水準であってもやむを得ないという考えが、私たちの社会で常識化しているということが、タイガーマスク現象によって示されたとさえいうことができます。

2.取り残されてきた社会的養護

日本の社会的養護の特徴について、ここでは3点挙げておきたいと思います。

①そもそも社会的養護の必要を認められる子どもが諸外国に比して少ない。
津崎哲雄『この国の子どもたち 要保護児童社会的養護の日本的構築』日本加除出版2009年, p. 181

②養護を受ける子どものうち里親への委託(「家庭的養護」といいます)が少なく、大部分は施設で養育される。
③児童福祉施設出身者の大学進学率は12.3%(全高卒者53.2%)と低い。

これらは何を意味しているのでしょうか。

まず①は、日本の社会的養護には、そもそも子どもの保護機能が弱いということを示しています。この背景には、「実親の子どもの養育を放棄すること自体がけしからん」とか「家族の中のことに外部から介入すべきでない」といった観念が日本社会に強く存在することが考えられますが、いずれにせよ、子ども自身の利益が相対的に軽視されてきたことがわかると思います。

②も同様です。子どもが家庭的な環境の中で育つことが基本的には望ましいということがはっきりしたのは、決して最近のことではありません。にもかかわらず、里親委託率は戦後一時的に高まった時代を除けば、長い間10%前後という極端に低い状態で推移していました。つまり、日本では子どもに家庭的な環境を提供するという努力が永らく欠けてきたのです。このことも、戦後日本の社会的養護が、子どもの利益を守ることを第一義的な目的としていなかったことを示しています。

そして③は、そもそも社会的養護が、生活保護制度などと同様に、最低限度の生活さえ保障すればそれでよい、という「ナショナルミニマム」原則に基づいて運用されてきたことを示しています。子どもは、自分を虐待する親を、養育することができない親を選んで生まれてきたのではありません。その意味では子どもには最低限度の生活しか与えられないという一種の「罰」を与えられる理由はないはずです。にもかかわらず、子どもに対するこのような処遇のあり方は永年放置されてきました。

「タイガーマスク現象」が美談となったのは、日本のほとんどの人びとが、永年社会的養護を必要とせざるを得なかった子どもの置かれてきた境遇に、そもそも関心を持つことなく、また関心をもったとしても、それを「親の義務」とか「ナショナルミニマム」といった不適切な常識で裁くということに、何の痛みも感じなかったからに他なりません。

永年の社会的養護のあり方については、「児童相談所が悪い」「施設の職員の意識の低さが悪い」とかさまざまな批判がなされるようになってきましたが、私は、社会的養護関係者を責めても仕方がないように思います。というのも、社会的養護関係者が他の社会サービスの領域で活動する人びとに比べて道徳的に劣悪だと信じる理由がないからです。そうではなく、このような社会的養護のあり方をもたらした最大の理由は、日本社会に生きる人びとが、社会的養護を受ける子どもたちに関心を払ってこなかったことそれ自体にあると思います。


3.地域包括ケアと一緒に考えてください

そうはいっても、社会的養護も少しずつですが状況は改善されてきています。現在、①里親への委託を積極的に推進する、②児童養護施設などの施設ケアをできる限り家庭的環境に近い形で運用する、という方向に向かって改革が進み始めています(後掲資料「社会的養護の課題と将来像の実現に向けて」)。また、別添の資料「日本の社会的養護と特別養子縁組制度への提言」(日本財団、2015年)にみられるように、特別養子縁組制度を活用して特に愛着形成の必要な乳児に円滑に家庭的環境を提供しようとする運動などが始まっています。

ここで、みなさんに是非お願いしたいことは、本年のえにしの会のテーマである地域包括ケアと一緒に社会的養護について考えていただきたいということです。すると察しの良い方は、地域包括ケアについて考えることと、社会的養護について考えることは同じことだ、ということがたちどころにおわかりになるのではないかと思います。下の図は、厚生労働省が描く社会的養護の「理想」ですが、地域包括ケアの概念図とそっくりだと思いませんか。

 たとえば、家庭的養護を子どもに提供することは、高齢者ケアの在宅化に対応しています。おばあちゃんを病院から退院させて自宅に帰すだけではケアになりません。自宅でおばあちゃんがくらしてゆけるように、本人を含め、家族、地域社会、行政が連携しあうとともに、そこに適切かつ充分な支援が行き届かなければなりません。これと同じように、子どもも里親に委託したり養子縁組したりすれば終わりではありません。子どもに家庭的養護を提供することが意味をもつためにも、子どもを含め、養親家族、実親、地域社会、行政の協働が必要で、加えてそれぞれに対する適切な支援が届かなければならないのです。

政策としての地域包括ケア政策には、わかりにくい部分もいろいろとありますが、それでも社会的養護にくらべれば、驚くほど順調に政策が進展しているといえるでしょう。私の理解では、その順調さの最大の理由は、今日高齢者の生活のあり方に、社会が大きな関心を払っているからに他なりません。そして高齢者の生活に向けられた関心から、それが悲惨なものであることは許さない、という社会としての共通認識が生まれ、それがケアの水準を支えているのです。

「タイガーマスク現象」が図らずも示したのは、社会的養護が子どもに対して適切なケアを提供できる、その前提となる子どもの養育環境についての社会的関心が私たちの社会に欠けていたということであり、またそのような社会的関心の大切さでした。でも、「伊達直人」たちはもう自分の仕事を終えて帰って行きました。

タイガーマスクでは終わらせない。次は私たちの番です。少なくともえにしの会に集まってこられている方々にとっては難しいことではないと思います。高齢者の暮らしを見つめるのと同じ眼差しを子どもにも向ければよいだけなのですから。


2015年3月10日火曜日

岡村重夫のすすめ

必要あって、岡村重夫の著書・論文を渉猟しつつありますが、優れた学者だったと改めて思っています。管見の限りでは、日本の社会福祉学が生み出した学者ではピカイチだと思います。

もちろん、私のような認識を持っている人は決して少なくないと見えて、今日でも「岡村理論」をどう継承すべきかについて論ずるタイプの著書などが出版されてもいるところです。ただ、それらの論考の多くは、岡村の議論を咀嚼するので精一杯という印象のものであるのも事実です。

これは重要なことですが、岡村の社会理論を咀嚼するだけでは継承になりません。その限界をきちんと指摘して、どう乗り越えるかを示してこそ継承に値します。現状でそのようなタイプの議論がほとんどないのは、かなり深刻な問題で、このままでは岡村の議論は総括されないまま学説史に埋もれてゆくことになってしまうでしょう。

その点からいえば、社会福祉学の研究者は、M.ウェーバーのいう、学問上の「達成」がつねに「他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲する」の意味をよく考える必要があるといえましょう。

岡村重夫『社会福祉原論』(1983年)は、容易に手に入る(おまけに安い)ことですし、社会福祉学を専攻される方以外にも是非読んで頂きたい本です。第1章に独特の観点からの歴史の検討があり、最近の教科書と違ってとっつきにくいですが、そこを我慢して読み進みますと、第2章に次のような議論が出てきたりします。

「多数の社会関係をもつ個人は、当然多数の社会的役割を果たしてゆかねばならないが、その役割の内容や多数の社会関係の実態について、専門分業化された制度は、自分の専門に属さない他の制度が個人に何を要求し、どんな役割期待をするかについて認識し、理解する能力をまったくもたない。例えば病院は、ただ医療機関としての立場からのみ決められた条件を患者に対して、その実行を期待するのであって、その患者が、職場において何をもとめられているか、家族においてどんな役割を果たさねばならないか等々、個人のもつ複雑多様な社会関係の実態をまったく知らない。」(p.87)

岡村は、ここで社会制度には本質的に、個人の生活を統合するという課題を個人に突きつける性質をもっており、人びとの生活の支援を完遂するためには、社会制度による支援のみならず、この生活の統合が保証する支援が必要となる、という見解を表明しています。

この理解を、たとえば地域包括ケアに適用しますと、地域包括ケアをシステム=社会制度として捉えている限り、生活支援政策としては成功しないということになります。これは、現在の地域包括ケア政策が得てして陥りやすい間違いを指摘しているということになるかもしれません。

では、社会制度以外に何が必要なのか。誤解なく理解するためには、本書を一読されるのがよいでしょう。

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2014年12月24日水曜日

地域包括ケア構想の死角

以下は、『訪問看護と介護』(医学書院)2015年1月号の新春座談会「通過点としての2025年 〜介護ロボットと自動運転のあるSFじゃない「地域包括ケア」の未来」の企画趣旨を説明するコラムとして書いたものの草稿です。ヒューマノイド研究の先端を行く、石黒浩さん、電気自動車・自動運転研究の草分けの清水浩さん、工学分野と医療・介護分野の両方に精通する細馬宏通さんとの間で、4時間超におよぶ収録をしました。

もとより私は地域包括ケアは、決して高齢社会の困難、とりわけ財政的な困難を乗り切る手段とはならず、そこを勘違いしてしまうと、非常に貧弱であったり、家族や地域住民その他に過大な負担を強いたりする「地域包括ケア」もどきができてしまうかもしれませんし、そもそも地域包括ケア化自体が財政的に頓挫してしまう危険もあると考えてきました。

そのような折、医学書院から座談会のお話を頂き、私としては地域包括ケアをよいケアとして成功させるためにも、本当の意味で高齢社会を乗り切る方策について考え始める契機となる企画としたい旨提案させて頂きました。そして実現したのが今回の座談会だったわけです。私にとっても理解が十分でない点も多々あり、端緒的な内容となったことについては、力量不足を大いに反省しているところですが、意欲的な試みであることは確かなので、よろしければ本文も含めてご覧頂けると幸いです。

『訪問看護と介護』2015年1月号


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地域包括ケア構想の死角

猪飼周平

「団塊の世代が後期高齢者となるまでにそれに対応できるケアシステムを構築しなければならない」といういわゆる「2025年問題」が喧しく論じられ、決定的な対応策が「地域包括ケア」であると主張されている。この潮流に対し、私がこれまで各所で述べてきたことは、「地域包括ケア」は、高齢者向けの政策として一定の有効性があるとしても、高齢化社会を乗り切るための政策としては効果が期待できないということである。

1. 地域包括ケアは素晴らしい。だが・・・

なんとなれば、ケアの質をひとまず度外視して、新旧のケアをみてみると、地域包括ケアにおいては、ケアを地域的に展開するために、より多くの有給のケア人員、家族・地域を含めたより多くの無給の人員、それらを連携させるための資源を動員する必要があることがわかる。現在の超高齢社会が、「労働力人口の減少」と「財政逼迫」の方向へ進むとすれば、直感的にも、地域包括ケアがどちらかといえば「高齢化対策」に逆行しているということに気がつくのではないだろうか。

本誌の読者の多くが実感しているように、地域ケアを高齢者のみならずケアを必要とする人びとに届けることは、ケアの質を引き上げてゆくという意味では素晴らしいことである。だが、その方向が、深刻化しつつある高齢化対策と両立しないとするなら、次に私たちがなすべきことは、「地域包括ケア」を実現するためにも、十分な高齢化対策を打つ方策を一方で見出しておくことにほかならない。

2. ケア労働者増大の「日本経済」へのインパクト

「労働力人口は減り続け経済成長は一層鈍化する一方で、医療・介護に必要な労働力は増大し続ける」ということは現在の社会システムの延長線上に未来を予測する限り、政府関係者も学者もほぼ一致して支持するものである。

たとえば、経済学者の野口悠紀雄によれば、2050年には、医療介護労働者の労働力人口に占める比率は推計で25%を越えてしまうことが予測されるが、そのような経済は成り立たないという。というのも経済成長をもたらす他の諸産業にまわる労働力が大幅に減ってしまうからである。とするなら、「高齢化対策」として何より必要なのは、労働力人口の減少と財政逼迫という未来に正面から立ち向かってゆくことにほかならない。この問題に地域包括ケアが貢献するのは、ケア労動に非労働力人口である主に高齢者を巻き込んでゆくことによる効果に限定される(他方でケア労働者自体も増大するので、その効果は減殺される)。

3. 労働集約的産業である宿命からの脱却

では、高齢化対策として有効な手段とはどのようなものだろうか。直接的な方法として主なものは次の2つである。第1に、労働者を増やす政策、すなわち移民・外国人労働者政策である。第2に、ロボット、自動運転などの技術の積極的導入によって、労働生産性を上げることである。今回の座談会で議論するのは、後者の可能性である。

ケアとくに介護領域は産業としてみるとき、典型的なサービス業であり労働集約的(コストに占める労動の比率が高い)な産業であるといえる。そして、従来その性格は運命的なもので変えられないことが暗黙の前提となってきたように思われる。だが、前述のような状況にあっては、その運命を変えなければならない時機に来ているというべきだろう。

そこにおける技術革新の中核となると予想されるのが、1つにはロボット技術であり、もう1つには自動運転システムである。いずれの技術も、近年開発の速度を早めてきており、様々な形で実用化される時代が目の前に来ている。

そこで、今回の座談会では、ロボット研究、アンドロイド研究で世界的に著名な石黒浩さん、自動運転、電気自動車技術において永年先頭を走ってこられた清水浩さんにお越し頂いて、ケアへの貢献の可能性と現状について議論して頂くことにした。また、本誌の連載でお馴染みの細馬宏通さんには、むしろ医療・介護現場の現実から出発して、工学分野のお二人と意見を結び合わせる方向で議論をお願いした。

2014年7月10日木曜日

地域包括ケア政策をどのように理解すべきか

以下は、日本薬学会大134年会における講演のafterthoughtsとして書いた、地域包括ケアに関する短文です。とくに目新しいことは申し上げていませんが、ご関心のある方はご笑覧頂ければ幸いです。



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地域包括ケア政策をどのように理解すべきか


0. はじめに

現在「地域包括ケアシステム」に関する政策が本格的に推進されているということはご存知かと思います。では、そもそも地域包括ケアとは一体何でしょうか。また、なぜ地域包括ケア化する必要があるのでしょうか。さらに、地域包括ケアシステムを構築することでどのような政策目標を達成すればよいのでしょうか。おそらく多くの方々にとって、これらの問いに明確に答えることは難しいと思います。ただ、それは読者に原因があるのではありません。なぜなら現在の「地域包括ケア」政策自体に、概念や目的に大きな混乱があるためです。

今大会における講演では、この概念や目的に関について、どのように組み立て直せばよいかについてお話ししたところですが、以下では、その概要を簡単に再説してみたいと思います。


1.地域包括ケア化はケアの歴史における重大な転換を意味する

地域包括ケアが、とりあえずより地域的でより包括的なケアシステムと大雑把に理解しておきましょう。ただ、これだけでも、従来のケアシステムに大きな変化をもたらすものであることはわかるでしょう。従来医療は、病院と診療所という階層的な施設群によって主に担われてきました。それが、医療施設という枠を大きく飛び出して地域全体で医療が行われるようになります。さらに、そこで行われるのは従来の医療=患者の病気を治すだけでなく、病気・障害の有無に拘わらず住民の健康的な生活を全体として支えるという、非常に包括的な活動になります。

20世紀を通じて、日本を含む先進諸国では、病院/診療所という二元的構造を軸にしつつ発展してきました。その過程は、ケアの地域化や包括化とはむしろ反対の過程であり、それは施設化や医療システムの孤立化の傾向をもっていました。施設化については、たとえば往診の衰退や出産や死の施設化などさまざまな現象によって確認することができます。また、孤立化についていえば、20世紀を通じて、医療は保健(公衆衛生)や福祉とは直接の接続をもたない自己完結的なケアシステムを営むようになりました。その意味では、地域包括ケア化は、この20世紀的な歩みを反転させるということであり、まさに歴史的なケアシステムの転換を意味していることになります。


2.政策化の過程で地域包括ケアという概念は混乱した

政策一般にもいえることですが、現在厚生労働省が推進している「地域包括ケア」政策も、現実の政策となる過程でさまざまな利害当事者との調整や、財政状況その他の政策環境に強く影響を受けています。その結果、「同床異夢」といいますか、さまざまな利害や思惑が交錯しており、それぞれの関係者は、自分に都合の良いようにこの政策を解釈して利用しようとしています。このために、地域包括ケアが一体何なのか、なぜ地域包括ケアを構築する必要があるのか、それによって私たちはどのようなケアの将来が実現するのか、そういう基本的なところがぼやけてしまっています。

地域包括ケアを、医療費を下げるためのシステムだと解釈する人もあれば、高齢化対策の一環であると解釈する人もあります。さらに、病院から医療必要度の低い患者を追い出す方法だと解釈する人もあります。もちろん、人びとにとってより望ましいケアシステムであると解釈する人もいます。もっとも、思惑が違っても、必要とされるケアシステムが全く同じものであるとすれば、この解釈の差は問題になりません。この場合、地域包括ケアシステムは、利用者一人一人の関心に応じて好きなように利用すればよい、図書館などと同様の、共通のプラットフォームということになります。

ただ、残念ながらそのような都合の良いことにはなりそうにありません。地域包括ケアがいろいろな用途に用いることができるというのはある程度事実ですし、政治的合意のためにはそのようなパッケージングが不可欠であることは確かですが、実はシステムの目的が何であるかによって、ケアシステムの姿は時間を経るに従って大きく異なってゆくことにならざるをえません。地域包括ケア化は、歴史的な時間の中での変化であり、それは長い時間の中で進行する変化だと考えなければなりません。とすれば、長期的に私たちのケアがどこに向かおうとしているのか、ということを知ることこそが、地域包括ケア政策に目的を与えるものであるといえるのです。もしここで私たちのケアの長期的展望を見誤ってしまうと、私たちのケアの自然な発展の方向とは異なる方向に政策を推してしまうことになり、長期的には軌道修正のために、かえって大きな社会的・経済的コストを払うことになってしまうと考えなければなりません。


3.高齢化対策として地域包括ケアは有効でない

議論の詳細については別稿 において議論していますのでそちらに委ねるとして、ここでは概略だけをお話しします。結論から申しますと、高齢化対策という意味では、長期的には地域包括ケアシステムは有効性が低いということです。

なにより、ケアコストの抑制という意味で地域包括ケアは有効ではありません。というのも、単にケアの効率性ということだけを考えるのであれば、施設のような限られた場所にケア対象者を集めて対応した方が基本的には効率的だからです。地域包括ケアシステムは、この効率的環境を放棄することを前提とするシステムで、他の部分で効率化するにしても、基本的に不利な条件からスタートすることが宿命づけられたシステムなのです。したがって、「地域包括ケア」が政策化されて以降、厚生労働省は「高齢化を乗り切る(財政的な意味で)にはこれしかない」という立場に立ってきましたが、その実地域包括ケアは高齢化を乗り切るには余り向いていないといえます。

高齢者が特に地域包括ケアを必要としているのでもありません。高齢化のより進んだ地域(たとえば中山間地域など)において、より地域包括ケアへの共感が拡がっているという傾向は観察されません。医療関係者の中には、生活習慣病を抱えながら生きて行く高齢者が増えれば、ケア目標は自ずとQOLに向かい、その結果より地域的なケアが望まれるようになると考えている方が多いように見受けられますが、もしそうなら、高齢化の進んだ地域においてより地域ケアを人びとが歓迎しているという事実が観察されるはずですが、実際はそうではありません。


4.歴史的潮流から政策目標を探す
 
高齢化対策として地域包括ケアが有効でないとするなら、一体、地域包括ケアは長期的にみて何の目的で行えばよいのでしょうか。

ここで、地域包括ケアシステムには先駆が存在するということを思い出してみましょう。戦後の地域医療の取り組みをみてゆくと、有名無名に拘わらずさまざまな方が、少数派ではあれ、事実上の地域包括ケア化に取り組んでいました。それらの人びとからみれば、現在の地域包括ケアは、「何をいまさら」というものにすぎません。たとえば、ここで佐久総合病院の事例を考えてみましょう。驚くべきことに、佐久では事実上の地域包括ケア化が戦後直後から進められていました。さて、そこで佐久の関係者達は、何のためにそれを進めていたのでしょうか。もちろん、高齢化でもなく(むしろ当時は多産が社会問題だった)、医療費の抑制でもありません。それは、地域包括ケア的なケアが、人びとをより幸せにするケアであるということを信じたからに他なりません。

ここで、私たちの社会に、地域包括ケア的なケアがよいケアだと、住民、患者、実践家といった人びとに幅広く認められてゆく歴史的な傾向が見いだせるとすると、どうなるでしょうか。いうまでもなく、佐久のような試みはより社会に普及しやすくなり、長期的には日本のケアシステムも、全体としてより地域包括ケア的なケアシステムに近づいてゆくことになるでしょう。そしてその傾向は、社会の高齢化の度合いがどうであれ、地域包括ケアシステムのケアコストの節減効果がどうであれ、みられることになるでしょう。逆に、地域包括ケアに反する政策が打たれたとすると、人びとのケアに対するニーズから離れてしまい、それを修正するために大きなコストが発生するか、人びとの間にケアに対する不満が蓄積することになります。このような歴史的トレンドが存在する場合には、ケアに関する政策は、生活モデルから大きく離れることは不合理である、ということになります。


5.生活モデル化による地域包括ケア化

とすると、地域包括ケア政策にとっての最大の焦点は、地域包括ケアを好ましいという認識が広まって行く長期的なトレンドが存在しているかどうか、に集約されることになります。そして、私は、この長期的なトレンドは存在すると理解しています。その最大の根拠は、ヘルスケアのみならず、広義の福祉、すなわち人の暮らしを支える活動全般にわたり、1970年代の後半以降、支援観の転換(どのようなケアが望ましいかについての価値観の転換)が進行していることにあります。つまり、①支援の究極的ゴールを生活上の価値(QOL)の増進におき、かつ、②それを達成するために、当事者の置かれている状況をエコシステムとして捉えなければならないという支援観が浸透しつつあるということです。これは、ソーシャルワークの領域で「生活モデル」と呼んできた支援技法や、社会政策の領域で「社会的排除」という概念を利用した社会問題の把握法、社会福祉学において1980年代以降盛んに議論されるようになった「普遍的福祉」などは、それぞれニュアンスの違いはあれ、上記2点の支援観を包含した概念となっています。上記2点の支援観に基づいてケアシステムを構築しようとすると、その形態は自ずと地域包括ケア的なものとならざるを得ないのです。私は、四半世紀以上の時間を進行してきているこの支援観の変化を「生活モデル化」と呼んでいます。


6.最後に

以上の議論をまとめましょう。

① 地域包括ケアは、高齢化対策に適さない
② 地域包括ケアの合理的な根拠は、社会における支援観の生活モデル化である
③ 地域包括ケアシステムの各要素の選択は、それが生活モデルに適合しているかどうかによって評価されることになる。

私たちが気をつけなければならないのは、ケアを地域化、包括化しさえすれば、生活モデルに叶うケアシステムになるか、といえばそうではないということです。基礎自治体の職員たちの多くにとって、地域包括ケアは上から降ってきた政策にみえている嫌いがあるように思います。そうしますと、「お上」がやれというからやるというだけの政策になりがちで、そこに出来上がる「地域包括ケア」は、歴史が支持するものとは無関係な地域包括ケアみたいなものになってしまう可能性があります。そうならないためには、地域包括ケアシステムとは、ケアの生活モデル化のあくまで結果にすぎないということを踏まえて頂きたいと思います。



2014年2月14日金曜日

2013年12月のシンポジウムにおいて

昨年12月の文科省のシンポジウムに講演者として呼ばれました。報告書作成のためにテープ起こしをして下さったものを頂きましたので、転載しておきます。

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平成25年度・文部科学省 先導的大学改革推進委託事業・医学・看護学・歯学チーム合同シンポジウム

【基調講演】

「ヘルスケア人材供給に関する長期戦略について」

一橋大学大学院社会学研究科
教授 猪飼 周平

【座長:北村】 それでは、早速ですが、基調講演に移りたいと思います。最初に基調講演をお願いしたのは、猪飼周平先生です。お手元の資料にご略歴がありますので、省略させていただきますが、医療者ではなくて社会学者であります。9月に私の所属している  東大のセンターで、一度ご講演をいただきまして、社会学者から見たヘルスケアの変動というものは、われわれがもっと知っておくべきものだろうと、非常に感銘を受けました。今回のシンポジウムにあたりまして、お忙しい中、ぜひ余人をもって代えがたいからお願いということで拝み倒して、出ていただくことになりました。ぜひ社会学者の先生から見たヘルスケアの今後ということで、お聞きいただければと思います。簡単ですが、では猪飼先生、お願いいたします。

【猪飼】ただ今、過分なご紹介をいただきました猪飼です。現在、一橋大学で医療政策の研究をしております。研究の仕方としては、主に歴史的な資料を使って研究をするという手法を使っています。恐らくこれまでの医療政策やヘルスケア関係のいろいろな研究の文脈では、あまり類例がないようなタイプの研究ですので、もしかすると初めて私の研究についての話をお聞きになる方には、少し戸惑いもあるかもしれませんが、それは、基本的に狙っているところが、本日のタイトルにもあるように、長期の戦略についてである点が主要因となるように思います。通常行政の感覚でいくと長期といっても最長10年とか、あるいはもうちょっとくらいだと思うのですが、私の研究をしている長期というのは、短くて四半世紀、場合によっては半世紀先というぐらいの非常に長いものです。

このような超長期の政策にとって可能かつ意味のある知識とは、いわゆる具体的にこういう制度をつくればいいとか、法律などに直接落とし込むためものではなくて、もっとその手前にあるもの、例えて言えば、方角を教える「北極星」のような知識になります。方向が分かれば、それに基づいて様々な戦略や制度の設計が、可能になってくるわけです。その意味では、私の研究は、政策の前提に影響する、そういったタイプの研究だといえます。

四半世紀とか半世紀といった政策的には超長期の未来に関して、従来研究で一番効果を上げてきたのは、いわゆる人口推計に関する研究です。というのは、人口は推計が当たるからです。他方で、それ以外の様々な社会的な要素については、従来あまり当たらないと考えられてきた。ただ、実際には、これから何十年かの間に起こることというのは、人口の変化だけではないわけです。価値観も変化するし、人の性質も変わっていく、社会の構造も変わっていく。このため総体としてある社会の未来というものを考えようとすると、様々な要素が変化することを前提として本当は考えなくてはいけないわけです。このため、社会科学者の間では、未来というものは例外を除けば予測することが難しいということで大体合意があって、未来に言及する社会科学研究そのものが、冒険的とみなされる傾向があります。

ただ、そのような中にあっても、歴史に関する情報は、現在、社会科学的な文脈で知られているものでは、比較的未来とつながっていると考えられています。例えば、社会科学の分野の一つに、未来学といわれるような分野があります。未来学の研究というのは、実際にはその種の本を開いて頂くと分かるのですが、概ね歴史の分析になっているはずです。つまり、未来を理解するということの最も必要な情報というのは、歴史的な資料として存在している。そこにあるのは、ただ単に昔のことを知ることが楽しいというようなレベルの、あるいはそこから教訓を得るというレベルの、いわゆる楽しみとしてやる歴史とも、あるいはある時代の社会そのものを解明しようとする歴史学とも違っていて、過去の材料を使って、ある種政策的な展望を構築していくという、そういうタイプの研究です。未来学とみなされていないものでも、たとえば政治学、経済学、社会政策学などの分野では従来から、政策史という研究領域があり、多くの研究蓄積がありますが、それらの研究の多くは未来学同様未来の政策への展望的知識を狙って行われてきています。その意味では、私が行っているような歴史的アプローチは、ヘルスケアの分野ではこれまであまり行われてこなかったものに属していますが、社会科学一般からみると決して特殊なものではありません。

前置きが長くなりましたが、本日は、そういった社会科学の伝統の上に立って、長期の人材戦略につながるような話をしたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。


高齢化の裏側にあるもの

さて、歴史的アプローチに立ったときにまず見えてくるのが、今のヘルスケアの最大の課題は人口高齢化であるという、各所で前提的に語られている言説のバランスの悪さということになります。

例えば、在宅という分野を考えてみましょう。在宅という分野に関して、先駆的にそういう取り組みをしてきた方々には、戦後から1980年、場合によっては90年ぐらいまでを総じて先駆といってよいかもしれませんが、いろいろな方々がおられました。そういう方々の仕事を振り返った時に、彼らがどういう問題意識で在宅という分野に取り組んだかというと、やがて高齢化するから、そのために準備しておこうという意識ではなかったでしょう。彼らは何を考えていたかというと、在宅というケアは良いケアなのだ、ということでした。在宅ケアは非常に良い性質を持っていて、質的な意味で在宅ケアというのは、いわゆる施設的なケアにはない重要な良さがあるのだという認識に基づいて、その信念で、日の目が当たらないような状況の中であっても、そういう課題に取り組んでおられたわけです。

それが実はある段階から、在宅ケアは高齢化の問題なのだと、議論が変わってゆく。それは高齢化をしていくと、高齢化に対応するためのケアシステムが必要になるとか、資源整備が必要になるという観点から、そういうことが言われるようになり、それを実現するためには、在宅ケアというものをうまく活用していくことが必要なのだという議論に取って代わられてゆくわけです。

後でまた言及しますが、人口高齢化への対策として、在宅ケアというのがどれほど有効なのかというと、実は、論理的にはあまりつなげることができません。高齢化について、多くの政策担当者の方々が強く意識するのは、財政的な逼迫(ひっぱく)の問題です。高齢者ケアに大きな資源を投入しなくてはいけないので、そのための人材整備だとか、資源整備なわけです。ただ、それをどういうふうに進めていくのがよいか。特に財政は非常に強い制約を受けていく中で、どうやっていけばよいのかと考えた時に、今まである意味施設という「点」で行われたケアを、地域という「面」で展開するということは、普通に考えると合理的ではないはずです。要するに、コストが上がってしまうと考える方が、自然なわけです。トランスポーテーションコストやそれに伴う調整コストが、すごく上がると考えなければならない。つまり、地域ケアみたいなものを展開することで、直線的にケアが安くなる、要するにそれに対応できるような財政的な逼迫を、緩和してくれるようなものになるという保証が、そもそも自明でないわけです。

にもかかわらず、高齢化イコール在宅ケアで、それは安いんだということが言われていた時期というのがありました。厚労省も地域包括ケアを推進する際に、当初はそういうロジックで政策推進をしていたわけですが、現在ではその看板をかなり下ろしていて、安くなるということはあまり言わなくなりました。実はそのぐらいここは誤解を含んでいる可能性のある論点なのです。それがまず一つ。

そうだとした時に、それでは地域ケアとか在宅ケアとかいうものは、そもそも何のためにやるのか。そこに結局話が戻っていくわけです。ただ、全体の流れとして、地域ケア的な方向にケアが進んでいくというのは、私は正解だと思います。それはなぜかと言うと、高齢化とは一義的には必ずしもつながっていない部分で、大きな社会の変動があって、それはある種価値観の変動なのですが、その価値観の変動が、地域ケアというものを良いケアだと認識する方向に向かって、社会が動いている。つまり、人々のニーズというか、要請というか、こういうケアがあってほしいという願いをかなえていく方向に向かって、ケアシステムというものを再構築していくと、おのずと地域ケア的なものになっていくという、そういう状況が生まれつつある。この変化が今歴史的に起こっている。


ケアの生活モデル化

今、ケアの世界で起きていることを一言でまとめると、ケアの「生活モデル化」ということができると思います。生活モデルという言葉自体は、もともと障害者福祉とかソーシャルワークの領域で作られた言葉です。それが作られたのがだいたい1980年ごろなのですが、それと同じ時期に、WHOのICIDH(1980年)というケアモデルが発表されたわけです。今はICFですが、これは言ってみれば障害や疾病の分類の基本的な枠組みのモデルだけですが、重要なことは、ケアがどういうふうなケアで行われることが望ましいのかということについての理念のある種国際的な合意というか、最大公約数的なものを意味しているとみることができます。

そこで、生活モデルはどういうものかについて、ごく簡単にお話しさせてください。一例で脳卒中という病気を考えます。それによって障害が残りました。例えば、片麻痺が残った。それで字が書けない。それでコミュニケーションが社会の中でうまくとれないという状況があった時に、生活モデルの一つの重要な特徴というのは、究極的なケアの目標はQOLだと考えるわけです。QOLが何かということは、後でまた議論しますが、とにかく生活の質という言葉通りの意味だと、ひとまず考えてください。そうすると、ここの質がどれだけ高いかというところに、生活モデルというのはフォーカスを当てるということに対応している。

生活モデルの意味を理解するためには、その対極となるケアモデルをみるとわかりやすい。上で言及したような脳卒中の状況があった時に、生活モデルに対置されるモデル、これは20世紀を通じて医療の世界において一番卓越していた価値観、ケア観なわけですが、それは「医学モデル」と呼ばれるものです。医学モデルでは、脳卒中によって様々な派生的な問題は起こるかもしれないけれども、問題の根幹はここである。だから、脳卒中をもし完全に治すことができるのであれば、その先の付随的な問題は起きないわけだから、ここを治してしまおうという発想になります。この発想に基づいて、治療のための様々な資源であるとか、研究資源みたいなものを集中させていく。そして、これこそが20世紀の医療を席巻したケアモデルでもあったのです。

これに対して、生活モデルというのはどういうふうに考えるかというと、要はQOLが上がればいいわけだから、病気が治るのならそれはそれでいいけれども、治らなくても、狭義のリハビリテーションをやればいい。それがうまく行かなくても、例えば字が書けないという問題であったら、利き手の反対側をトレーニングするとか、あるいはPCを使うとか、様々なサポートを使って字を書けばいいかもしれない。それでも例えば、非常にがっかりしちゃって、外に出るという気力がなくなってしまっているとか、いろんなことが起こり得るわけですが、そういう場合には様々な人のサポートを借りて、人とコミュニケーションの場に出ていけばいいのかもしれない。そうやって考えるわけです。これが実は生活モデルという考え方の原型的な姿です。

ここで、医学モデルと生活モデルとでは何が違うか。ポイントは、実は原因観なのです。原因観の違いとは何か。原因という概念は、究極の原因は存在しないというところに、重要な特徴があります。要するに、原因にはその原因となる事象のさらに原因を考えることができ、原因の原因の原因、原因の原因の原因の原因みたいにして、いくらでも遡っていくことができるわけです。つまり、原因というものは、究極の原因がないところに、その特徴がある。とすると、実は医学モデルというのは、無数にある問題状況の発生させる原因の中の一つ、要するに医学的にオペレートできるような部分だけをつかまえて、問題を解決しようとするタイプの、一種の還元主義的なアプローチなわけです。

これに対して、生活モデルというのは、原因が無数にあるということを、そもそも前提として認めて、原因が無数にあるということは、原因ごとに対応策を考えれば、論理的には対応策も無数に考えられるわけです。そこには、効果的なものとか、そうじゃないものとか、選り分けだとか、様々なものが起きるでしょうが、論理的には無数に対策も含めて考えることができるわけです。そうやって様々なレベルでの原因をつかまえて、そこで対応していこうというのが、実は生活モデルの基本戦略なわけです。

さらに、これは医療の世界だけで起きている変化ではなくて、人が人を支援するというような様々な領域で同時に起こってきている変化で、医療の変化よりはずっと大きな変化を背景にしています。その変化の中に飲みこまれるような形で、生活モデル化というのが、医療にもその波が押し寄せてきていて、実際にケアの考え方が、医学モデルから生活モデルに向かって、徐々に変化してきている。

生活モデルから見ると、医学がどう見えるかというと、治療医学の世界というのは、重要ではあるけれども、その人の生活を支えていく無数に存在し得る手段の中のあくまで一つという位置付けに変わるわけです。実は、今の医療の世界が直面している問題は、この医療の位置付けの変化に、どう適応するかという問題なわけです。

ICIDHを発展させたICFは、このような考え方を一般化したものです、たとえば、原因は互いに一つの結果の原因は一つとは限らないです。たくさんあるかもしれないし、互いに原因と原因が総合的に、要するに独立でない可能性もあります。そういうことを全部考慮すると、ある一人の患者なり当事者なりの状態は、様々な原因となる要素の網の目というか、ネットワークの中の結節点に置かれることになるわけです。そういうのを、エコシステム的な原因観といって、ICFはそれを非常にきれいに表現しているわけです。

先ほど少し申し上げましたが、この変化というのは、実は広い意味での福祉、要するに人が人を支援するという意味での最広義の福祉の全域で、このケア観の転換は起きています。先ほども、例えばICIDHなんかもそうですが、あれは障害分類なのです。結局、障害者福祉の領域で先行的に変化が起きる。さらに、その障害者福祉での領域での変化は、それだけで起こったのではなくて、実は生活保護とか様々な社会支援の領域で、同時に起こってきたものの一種なのです。

たとえば、社会的排除という言葉をお聞きになったことあるかもしれませんが、今、EUの社会政策の中心政策は、社会的排除に対する包摂政策というのが、政策の中核になっています。この社会的排除という考え方は、実は先ほど言ったエコシステム的な原因観そのものを使っています。つまり、これは1970年代の後半ぐらいから徐々に現われてきて、80年代ぐらいには、福祉領域ではある種コンセンサスになる。ただ、医学モデルの非常に強かった医療の領域では、そこから10年ぐらいのタイムラグがあり、リハビリテーションの領域では、上田敏先生のような先覚的な方々が、そういうものの重要性を主張しておられましたが、本格的に医療の世界に入ってくるのは90年代に差し掛かってから、つまり、10年ぐらいのタイムラグがあってからです。ただ、それからもう20年以上がたち、今、ヘルスケアの領域も、大きくその生活モデル的な価値観に飲みこまれようとしている。そういう状況です。

医療の世界を、歴史的に振り返ってみると、20世紀を通じて医学モデル的な価値観が卓越していました。医療をやるときに、これまでの常識というのは、病院と診療所という2つの中核的な制度を使うシステムなわけです。この病院と診療所というものが、なぜ長年医療の基本とされてきたのか。これは端的に言えば、患者を治療する上で都合がいいからです。つまり、患者を医学的な意味で治癒に導くために合理的な制度を追求していくと、おのずと病院と診療所という二元的なシステムの型になる。私たちは、比較的最近まで、医療といえば病院と診療所という二元的システムによって供給するものだということを自明のことと考えてきましたが、この自明性はまさに、医学モデル的価値観が医療界全体を20世紀を通じて包み込んでいたからなのです。

それが今のように生活モデルのような形で、違う目標に置き換わるとどうなるかというと、システム的な大変動が起きてしまう。要するに、これまで前提だったことが、前提 ではなくなっていくわけです。現在私たちは、地域包括ケアだとか、多職種連携だとか、新しいケアの形を求めて右往左往しているわけですが、この状況を本当に作り出せるのは、高齢化ではなく、20世紀的な医学モデルから生活モデルへのケア観の転換なのです。高齢化は、資源整備の部分でケアシステムを部分的に制約している存在にすぎません。

ここはちょっと話し出すと長くなるので割愛しますが、簡単に言うと、生活モデル化  すると、生活モデルというものを前提としてケアシステムを構築しようとすると、おのずとケアシステムは、地域包括ケア的な姿を取るというのが、ある種自然になってきます。そこにはいろいろな要素が絡むので、単線的にそっちに向かうわけではないのですが、生活モデルを原則として理解して、それに向かって進んでいく。要するに、20世紀における医学モデルと同じように、そういうものが進んでいけば、ケアシステムはおのずと地域包括ケア化するということが、論理的に言えます。これはちょっと別のところでいろいろ議論したり、紙で書いたりしているので、関心のある方はお読みいただければと思います。

そう考えたときに地域包括ケア、今の焦点になっている政策ですが、これをどう理解  することができるかというと、実は従来医療界で言われてきたのは、1番(スライド7の①)です。しかし、これはやや論理的におかしいといわざるをえません。この議論は生活習慣病中心になってきて、治らない人が大量に出てきたから、QOL、生活モデルだと言っているわけです。ただ、実は時代をさかのぼればさかのぼるほど、生きている人たちはみんなどんどん今の観点から見ると、不健康に生きているわけです。要するに、それが医学の進歩というものの意味です。そう考えると、実は時代をさかのぼるほど、本当はQOL重視の社会にならなければいけません。

次に、②の安上がりというのが成り立たないというのは、最初に申し上げた通りです。結局、③のようにケアの質が良いからやるという論理でなければ、地域包括ケアとは成立する根拠を見いだせないものなのです。ただ、生活モデル化というものを引き受けて、それを認めて、それに基づいてケアをやっていこうとすると、地域包括ケア的なものになるという意味なのです。

もう時間がないので、ごくごく簡単に申し上げます。そうなった時に、地域包括ケア、幾つかの特徴を帯びます。お配りした資料の中で少し書いているのですが、簡単に言うと、QOLを支えるということが、ヘルスケアにとっての一番重要な目標になるわけです。そうなった時に、患者あるいは病院に入院している患者って、どういうふうな存在に見えるか。従来長年厚生行政というのは、いわゆる社会的入院の解消というのを、政策の中心に掲げてきました。ただ、生活モデルで考えてみると、社会的入院でない患者なんていません。どんな人でも、医療ニーズと生活ニーズを両方抱えていると考えなければ、ケアが成り立たない。

そう考えてみると、今、病院が8,000ぐらい日本にあるわけですが、医学的な治療の効率を高めていって、在院日数を短くしていくということが、効率性を持つような病院というのは、要するにヨーロッパやアメリカの病院がそういう病院だと考えると、それに対応する病院というのは、8,000のうち恐らく1,000からちょっと多いぐらい。残りの日本で病院と呼ばれるもののほとんどは、実は生活と医療というものを、両方供給できるような柔軟な組織でならなければならないという結論に、必ずなるわけです。これに今の日本の医療システムは、対応できていないわけです。考えてみれば分かりますが、生活ニーズと医療ニーズを両方持っている人に対して、私たちの施設は医療施設ですから、医療ニーズにしか対応しませんというサービスの仕方が、合理的かということです。当然不合理だし、効率が悪い。ここの部分は、長期的に見ると、必ず変わっていかざるを得ない。そういう領域です。

あと、もう一点申し上げておきますと、QOLとは何かという問題。医学のいろいろな  論文等で、QOLの測定尺度、SF-36とかEuro QOLとか、様々なものが提案されていますが、これらのすべては、QOLを測定してはいません。それはまさに血圧計や体温計が、健康を測定しないのと同じです。生活の質それ自体を、測定尺度は測定しないのですね。要するに、客観的な指標を参考に使うために考案されている。ただ、それが自己目的化しやすいということで、QOLイコール測定尺度によって測られたものだという認識が広まりやすいのですが、QOLというのは究極的に測定できない。

ここでもし、究極的にあなたはどんな生活がいいですかと、例えば質問されたとします。これに答えられる人はいません。たとえば学生に質問すると、南フランスでクルーザーに乗って暮らすこととか言うんです。だけど、本当に南フランスでクルーザーに乗りたいのって聞くと、いや、どうですかねみたいにだいたいなります。他の人に南フランスでクルーザーに乗りたい人って聞くと、あまり手が挙がらない。つまり、お互いにそれが望ましいという形で合意できない。非常に多様性が高い。しかも、自分自身でも具体的にそれをイメージすることができないようなものが、QOLのオプティマムの領域です。

それを目指していくシステムとは一体何なのか。医学モデル的な世界においては、医学という限定が付くけれども、何を目標にするかというのは、客観的に知ることができました。そこを目指せば良かった。それに対してQOLというものを目指そうとすると、それが分からないということを前提に出発しないといけません。ここが実は20世紀的なシステムと21世紀的なシステムの大きな違いです。そこで、やはり旧来的な発想をする医療の研究者たちというのは、それを医学のかつての領域に引き寄せたいので、一生懸命「測定尺度」すなわち客観化する道具を作ろうとします。そして膨大の数の提案がなされる。これは、いってみれば、「ないものねだり」です。

これに対して、従来のさまざまな社会的な技術として、それが何だか分からないものを取り扱う技術が実はあります。例えば、わが国の憲法でも憲法第13条で明文化されている幸福追求権がそれです。憲法が何を定めているかというと、幸福とは何かということは分からないけれども、それぞれの人が自分の幸福を追求することを、他人に邪魔させないということを定めている。これは、自己決定権の尊重につながります。近代社会では多くの場合、これでうまくゆきます。医療関係者の方に知っておいて頂きたいのは、幸福のように不可知なものであっても、それを無理に客観化、指標化しなくとも社会的に取り扱う方法が存在するということです。

とはいえ、自己決定権とおなじやり方は、直接ケアの世界に適応しても、とくに日本を含むアジア的文脈では上手く行かない可能性が高いです。というのも、自己決定することが難しかったり、そういう能力がうまく発揮できないような方たちというのを、特にたくさん対象として含むシステムが、ケアシステムだからです。

とすると、この幸福追求権とは違うやり方を、模索しなくてはいけない。そこがどうやってそういうものをつくっていくかということで、ここでは時間の関係で詳しくはお話しできませんが、1つだけ私がヒントとなると考えていることをお話しすれば、たとえば、ケアの中で「寄り添う」という行為がありますが、これは実は自己決定でもなく、パターナリズムでもない領域を狙った、非常に重要なタイプのケア的行為です。このような行為の合法性をうまく保障することができれば、幸福追求権とは別のやり方かつ客観化とは別のやり方で、QOLを支援することができるのではないかと考えています。

最後に、人材の条件ということで考えた時に、一つ重要なポイントがあるということを述べて起きましょう。簡単に言うと生活的な価値に関与できる能力というのが、医療者に求められる。これは在宅ケアに関わる医療者のみならず、急性期の病院に勤めている医療者にも、求められるわけです。要するに、退院した後、その人がどういう療養生活を送るのかということを、イメージすることができなければ、病院の中だけで最も安全な医療の手段を選択してしまいます。そうではなくて、療養の大きなサイクルの中で、その人が家に帰ってどういう暮らしをしながら薬を使うのだろうか、どういう暮らしをしながら生活するのだろうかを、イメージできなければいけません。とすれば、そこには能力的な条件があって、医療者は人間に興味がある人でなければならないということになります。だから、医学教育というのは、私は18才で入れるのは早いと思っています。簡単に言えば、そこをスクリーニングできないから。それはそういうふうに考えていますが、いずれにしてもそういう能力を持った医療者を、中心に置かなくてはいけない。そういうことになります。

さらに言うと、地域連携の基本とは、実は生活というのは、ニーズがものすごく多様で、個別性が高い。とすると、私はこのケアをします、私はこのケアをしますということをかき集めて、それらの専門分業でシステムをつくっても、その外側にニーズが必ず発生しまう。つまり、生活ニーズに対応できるようなタイプのヘルスケアの専門職は、柔軟に自分が何をするのかということを、その場で選択しながら、目的に向かって進む。要するに、目標設定を前提として、その中で仕事を分配していくようなタイプのチーム組織が必要であり、その中で働けるようなタイプの人が必要です。そうすると、おのずと地域連携とか多職種連携といいますが、チーム内で能力的に重複は発生する。このような能力の重複を認めない地域連携は効率的に回らない。

概して、保健師だったら、保健師にしかできない仕事は何だろうと考えて、保健師の仕事を探しがちです。あるいは、訪問看護師にしかできない能力って何だろうとか、そういう方向で物事を考え、そこでそれを専門化していって、職業として形をつくっていこうとしがちです。私の理解ではこのような独自性の探索とは違うアプローチが必要です。それをやらないと、多分これからのケアのニーズに、対応できないということになると考えています。

少し時間が長くなりましたが、ここで終わりたいと思います。ありがとうございました。

2013年4月26日金曜日

地域包括ケアのコスト

ある病院関係の会員誌に依頼されて書いた地域包括ケアのコストに関する原稿(未定稿:引用についてはお問い合わせ下さい)です。

医療費の分野は、実証のディテールの部分に大変重要性のある分野で、私のようなディテールを分析する専門性を有していない者が口を挟むような事柄ではないようにも思われます。他方で、昨今の医療費の議論を見ているとヘルスケアシステムの全体というよりも、局所的な効率性ばかりが議論されているようにもみえます。いうまでもなく部分最適化が全体の最適化を意味する保証はありません。したがって、そこでは俯瞰的な立場からコストの全体的構図について議論することが必要になります。

そんなことから、筆者自身、かなりの能力的限界があるということを自覚しつつも、私なりに現在の「地域包括ケア」のコスト面について整理してみた、というのが下の原稿を書くに至った経緯です。

相手が病院関係者向けということで、最初は軽い文章を書くつもりでいたのですが、結局いつもの調子になってしまいました。

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地域包括ケアのコスト

猪飼周平
一橋大学大学院社会学研究科教授


1. はじめに

 先般、これから在宅分野に本格的に参入しようとしている医療法人の経営戦略担当者と話す機会があった。そこで概略次のようなやり取りがあった。筆者が、高齢者ケアについて地域で行うのと病院で行うのとどちらが合理的か、という質問したところ、「地域で行う方が合理的」であるとの返事であった。そこで、さらに筆者が、現在の医療法・診療報酬体系等を全部作り直せるという前提に立って地域と病院を比較した場合はどうか、と質問したところ、逆に「病院でケアするほうが合理的」であるとの答えであった。
 このやり取りが意味していることは何であろうか。それは、第1に、一病院の立場からみれば、診療報酬その他の経営環境が地域ケアに有利化していることから、地域ケアに参入することは経営的に合理性があるということである。またそれは、第2に、今度はマクロ的観点からみると、地域ケアへの政策誘導は、病院が施設として本来もつケアの効率性を捨てることで、全体としてケアを非効率化に向かわせている可能性があるということである。
 昨年度から厚生労働省は、本格的に「地域包括ケア」政策を推進している。これは高齢者ケアを、地域ベースで予防(保健)・治療(医療)・生活支援(福祉)を一体的に行うシステムを構築しようとするもので、病院経営に関わる読者もこの政策をどのように受け止めればよいかということで、情報収集に奔走された経験をお持ちではないかと思う。
 では、その過程で「地域包括ケア」とは何のための政策なのか、という問いに対して満足できる答えは得られたであろうか。厚生労働省の説明は、大体次のようなものであるといえよう。すなわち、これから日本には未曾有の高齢社会が到来する。これを乗り切るためには高額な病院での医療をできるだけ節約し、地域ベースでのケアシステムを発展させるべきである、と。おそらく読者の中にはそんなものか、とひとまず納得した方もあるだろう。だが、冒頭の病院幹部とのやり取りは、このような説明が、病院関係者の率直な実感と必ずしも整合的でない可能性を示しているのである。

2. 地域ケアと施設ケア

 まず、シンプルに考えてみよう。全く同じケアを在宅ベースで行う場合と、病院ベースで行う場合とでは、どちらの方が高くつくであろうか。コストでみればもちろん在宅ベースで行う方が相当に高価であろう。なにより移動に要するコストは在宅の方が相当に大きい。このコストは部分的には、移動そのものの費用として現れるであろうし、また部分的には、ケアのサービス量を確保するための必要な人員の増加として現れるであろう。またより多くの人員が面的に連動するためには、病院におけるよりも高度なコーディネーションを必要とすることになるが、これにも一定のコストを要することはたしかである。
 このような事態は決して特殊ではない。一般に私たちは人口が集中的に分布することで大きなメリットを得てきた。その最たる例が都市である。私たちはこのような集積のメリットを活用して効率的な社会を構築してきた歴史を持っている。そして、なによりここで問題となっている病院そのものが集積のメリットを梃子に発達してきた社会装置に他ならないのである。
 とするならば、厚生労働省は、このような病院における集積の利益を捨てても、地域包括ケア化することで別の効率化の利益が得られるので全体としてケアのコストが下がる、と主張していることになる。これは集積のメリットが一般であるとすれば、その一般的条件を覆す特殊的条件がヘルスケア政策に存在しているということを主張しているのと同じである。


3.地域包括ケアの経済性

 では、どのような特殊的条件が考えられるのだろうか。これまで言われてきたことを整理すると、概略次の4点に集約できるであろう。
 第1に、病院から患者を速やかに退院させることによって、病院による無駄な医療を削減できるというものである。この説明は、今日の病院ケアが、医療を必要な患者に過不足なく提供することに失敗している、という前提から出発すれば、ある程度説得力のある説明ではある。だが、読者の方々には、この説明がある種の「外科」的アプローチであることに注意を払っていただきたい。というのも、上の方法は、あたかも胃を全摘すれば胃癌もなくなるといっているのと同じだからである。このような考え方には2つの問題がある。1つの問題は、ある制度(病院)に無駄が発生するのであれば、制度(病院)を改良して無駄をなくすというのが通常もっともよい方法であるが、この「外科」的アプローチではその改良が行われないということにある。この改良をスキップして当面の費用削減だけを進めようとすると、たとえば、仮に政策によって患者が速やかに退院するようになったとしても、病院に残った患者に無駄な医療が行われる構造は温存されることになる。もう1つの問題は、退院させた先で新たな無駄が発生しないことが保証できないことである。つまり、ある患者のケアをする場所を変えることそれ自体には、ケアを効率化する必然性が含まれていないのである。
 第2に、地域資源を活用することによってケア供給がスリム化するというものである。これがセルフメディケーションの強化ということであれば、専門的ケアを省くことによるコスト削減効果が見込めることはたしかである。だが、それが介護力を家族に移転することを意味するような場合、状況が全く異なっている。というのも、家族を介護力として活用した場合、そこには経済学でいう「機会費用」が発生するからである。介護する家族は、介護する代わりに外で仕事をして所得を得る機会をコストとして負担することになる。この場合、「地域資源の活用」は、ケアの費用を保険財政から社会全体に移転していることになる。
 第3に、システム統合の利益である。ここに経済的効果の可能性があるのは疑いのないことである。というのも、どんなシステムであれ、複数のシステムが勝手に動作するよりも統合的に動いた方が(それができるのなら)効率的に決まっているからである。問題があるとすれば、それは次の2点である。1つは、地域包括ケアがシステムの効率性に関して統合の利益に焦点を当てることで、システムに関する統合以外の様々な効率化の契機を視野から脱落させる可能性があることである。もっともこの点については、地域包括ケアとは別に進めるのであれば、それでもよい程度のことではある。より本質的な問題は、システム統合そのものはそれが地域ケアとして展開することを必ずしも必要としていないこと、である。包括ケアが地域ケアである必要は少なくとも今のところあきらかではない。
 第4に、予防の経済効果である。経済的には、疾病予防などは「問題の先送り」にすぎないという可能性も指摘されている。とはいえ、人生全体でのトータルの医療費を引き下げる方法の中に予防的方法もあるかもしれないので、この点は予防全体というよりもどのような予防に経済効果があるのかについての実証研究がなされる必要があるだろう。ただ、ここで指摘しておきたいのは、第3点と同様、予防それ自体は、治療、福祉領域を含めた地域ケアの必要を必ずしも要請しないかもしれないということである[1]。
 これまでの議論を総合すると、およそ次の2つのことがいえるだろう。第1に、地域包括ケアには、医療費の削減に貢献する領域と、医療費の増加につながる領域と、コスト発生の形が変わるだけで医療費に関する効果が不明な領域があるということである。そして、第2に、医療費削減的な要素は主に地域ケアの部分ではなく包括ケアの部分に存在している、ということである。
 このように考えてみると、ひとまず、厚労省による「地域包括ケア」が高齢社会を乗り切るための切り札としての政策である、という説明については相当慎重に評価しなければならないということがわかるであろう。


4.何のための地域包括ケアか

では、地域包括ケア化する必要はない、と考えるべきだろうか。この点について、筆者はあちこちで議論してきているので、詳しくはそちらをご参照いただければ幸いであるが、それらの議論を結論から言うならば、地域包括ケア化は必然であるということになる。ただし、それは上でみたような、地域包括ケアの根拠としては全く不透明なコスト節約的な理由に依るのではない。筆者の理解では、社会全体が、地域包括ケア的なケアをより好ましいケアのあり方であると認める方向に、歴史的時間の中で移行しつつある、というものである。そして、それは何も医療の世界に限った変化ではなく、人びとの生活・人生を支える広範な領域=「ケア」という言葉がかかわる全領域にわたる変化でもある。ヘルスケアはその変化の中にある。
このケア文化の変化は、1970年代の社会福祉分野にその淵源を発し、1980年代にはひとまず社会福祉領域で浸透し、さらに10年程度のタイムラグを挟んで、ヘルスケア領域に波及してきた。1990年代以降、医療の世界でも急激にQOLという言葉が浸透してきたのを、読者は記憶しているだろう。まさにこれこそが、上でいうケア文化の変化の波をヘルスケアが被ったことで起きた変化なのである。
QOLという概念を単に「治癒不能な患者に与えられるケア目標」という意味であると理解している方がいまでもあるかもしれないが、今日ではQOLという概念はずっと根底的な意味合いをもつようになっている。というのも、QOLは、いまや医療が貢献すべき究極的な目的となりつつあるからである。その意味では、もはや医療はQOLの手段にすぎない。このような状況の出現は、たとえば、近年の胃瘻に関する論争を想起してみれば明らかである。というのも、そこで議論されていたのは、「胃瘻を造設して延命をめざすことに何の意味があるのか」だったからである。
地域ケア化は、実はこのようなケア文化の変化の必然的帰結として導き出すことができる。QOLは、①当事者の既存の生活をできる限り引き継ぐこと、②当事者の生活ニーズに関する情報を効率よく集めること、③生活ニーズの多様性に対応して多様なニーズ充足を行うことによって効果的に増進することができるようなものである。とするならば、そのようなサービスを供給しやすいのは、病院や診療所の中よりも、地域社会においてであるということになる。このため、ケアシステムは、ケアを合理的に供給しようとする圧力が社会にある限り、次第に従来よりも在宅側に重心を移したシステムとなってゆくことになるのである[2]。


5.地域包括ケアの時代のために

 ここまでの議論で述べてきたことをまとめると大体次のようなことになる。第1に、ケア文化の歴史的変動の中で、ヘルスケアがより地域的なケアに移行することには必然性があるということである。第2に、地域ケアにはコスト面からみて利点があまりないかもしれないということである。そして、第3に、現在政策として推進されている「地域包括ケア」は、どこでコストを削減し、どこでケア文化の変化に適応するか、という点が峻別されぬままにパッケージ化された、いってみればごった煮のような姿をしているということである[3]。
 では、私たちは、このような混乱した状況の中で何を考えればよいのだろうか。本稿の最後にこの点について述べておこう。
 筆者は、基本的な状況は実はシンプルだと思っている。というのも、ヘルスケアシステムが長期的に持続可能であるために何が必要かを考えればよいからである。ケア文化が変化し、人びとのケアに対する期待がより地域的なケアを求めている以上、それに応えなければヘルスケアシステムへの信頼が失われてしまう。また、コスト的に回らなければシステムが破綻することも自明のことである。とすれば、ヘルスケアシステムが長期的に維持可能であるためには、ケア文化に適応すること、とそれが維持可能なレベルのコストで運営されること、これは2つながらに必須の要件であるということである。どちらかのみをもっぱら考えることでケアシステムの未来を考えることはできない。
 私たちが直面している課題状況も実はシンプルである。それは、この2つのシステム上の要請を2つながらに達成するケアの形を、まだだれも見つけていないということである。それは読者を含め、ヘルスケアにかかわるすべての人びとによってこれから見いだされてゆかなければならないものにほかならない。


参考文献
猪飼周平『病院の世紀の理論』有斐閣(2010年)
猪飼周平「地域包括ケアであるべき”根拠”とはなにか」『医療白書2012』第1章、日本医療企画(2012年)
(その他文献、対談等については筆者のウェブサイトからいくつかフルテキストで読めるものがあるので、必要に応じて参照されたい。http://ikai.soc.hit-u.ac.jp/)



[1] この点は、次の論点に還元できる。すなわち、予防を支援する専門職が公衆衛生医や保健師のように保健専業の職種であることが合理的なのか、治療や介護にかかわる職種が兼ねることが合理的なのか、という論点である。
[2] 地域ケア化と包括ケア化はその必然性の論理がかなり違っており、事実上地域包括ケア化という現象は、地域ケア化と包括ケア化の合成と考える必要がある。本文中では用語がこの認識に基づいて使い分けられているので、厳密に読みたい方はこの点に注意をされたい。
[3] 筆者は現在厚生労働省が推進している「地域包括ケア」が間違っていると言いたいのではない。現在推進されている政策は、複雑な政治過程の産物であり、それがパッケージとして論理的に明快な姿をしているべきであると考えるとすればナイーヴすぎるだろう。むしろ、ここで述べておきたいことは、このような表面的な姿の背後で、現在のヘルスケアシステムの構造、および要素としての各政策の機能・波及的意義について整理されている必要があるということである。そしてこの整理は単に政策立案者のみが知っていればよいのではなく、実践側にもよく知られている必要があるということである。