2010年9月29日水曜日

学者と専門家の間で

保健医療社会学会関東例会(9月25日)で報告してきました。稲葉振一郎さんにコメンテーターをお願いしたところ、私があまり考えていなかった角度から批評を加えてくださり大変勉強になりました。

ただし、ここで述べようとしていることはその内容ではなく、当日の状況が難しいものとなってしまったことです。当日は、学会員だけでなく本会の開催を聞きつけてご参加下さった医療関係者など実務に関わる方々がおられました。その方々から私はいくつか質問をされましたが、十分にお答えすることができませんでした。遠方からわざわざお越しになった方もあったことを思うにつけ、申し訳ない気持ちになりました。と同時に、私が引き受けるべき期待とは一体何であるかについて、明確にしておかなければならないと思いました。というのも、ここが明確でないと今後も同様の状況が起きる可能性があるからです。

誤解の発生源となっているのは、学者(研究者)と専門家の違いです。1つの問いを深く追求するのが学者で、ある分野の事情に精通しているのが専門家です。1つの問いを深く追求しているうちに、結果として1つの分野について精通する専門家となる場合がありますので、この両者はまった別々のものではありません。ただし、ここで重要なことは、学者が専門家である必要はなく、また専門家が学者である必要もないということです。

自己診断をすれば、私は学者ですが、少なくとも今のところ専門家ではありません。ところが、現場で実務に関わっている方々は、学者と専門家が別物であるということは普通ご存じではないでしょう。むしろ一般的な認識は、大学教授=学者=専門家というものかと思います。とすれば、私のような学者も一般には専門家にみえるということになります。

これには、一般にはあまり知られていないと思われる事情があります。日本では千校近い大学(短大)が存在し、それらが全体として厖大な人数の教員を抱えています。私の知識が社会科学領域に限定されていると断った上で言いますが、厖大な数の大学教員の大部分の人は実質的に研究していないと思います。平均的にみれば、日本の大学教員にとっての生き甲斐とは、教育を別にすれば、専門家としてアドバイスをすることとなっているのが実態でしょう。研究を生き甲斐にしている大学教員は圧倒的な少数派です。実際、草の根レベル、市町村レベル、都道府県レベル、国政レベルと関わり方はいろいろですが、それらの各レベルの各所で大学教員が専門家としてアドバイスを行っています。その意味では、一般社会にとって大学教員が専門家にみえることは避けがたいことでもあります。

一方、実務家にとって必要とされるのも、通常学者ではなく専門家です。というも、学者は大事なことかもしれないが1つのことを知っているだけ、あるいは皆が信じていることが間違っているということを知っているだけであったりしますので、そのような知識は現場の問題に対処する上では直接役に立ちません。むしろ、多くの事例から道具箱的知識を構築して、求めに応じて適切な道具を提供する専門家の方が都合がよいのです。

さらにもう1つ事情があります。ある種の学者にとって、研究を進める手段として専門家となっておいた方が都合がよい場合があるということです。専門家は、アドバイスを求められることで、現場にどのような問題があるか、どのような解決方法が模索されているかについての情報を得ることができます。情報がインナーサークルから外に出ないような研究分野では、専門家としてインサイダー化しておかないと研究ができない場合もあります。このために、学者が積極的に専門家化しようとすることもあります。

私が『病院の世紀の理論』で主張したことの1つは、これからのヘルスケア政策にとって長期的展望をもつことが重要であり、そのためには歴史の重要性を認識する必要があるということでした。社会の長期的展望のような知識は、学者による深い探求から生成されることを踏まえると、私の主張は、政策はこれまでのように専門家のみに依存するのではなく、学者の生み出す知識にも十分な顧慮を与えなければならないという内容を含んでいることになります。その意味では、私は専門家としてではなく学者として政策に貢献しようとしているということになります。私は、究極的には学者の生み出すタイプの知識こそが最も社会に大きな貢献をなす知識であると信じています。そしてこの点こそが、私が学者であることと私の研究が政策を対象としていることを矛盾なく繋ぐものにほかなりません。

25日の研究会で起きたことは、少なくとも現時点では、単なる学者にすぎない私が、専門家としての助言を期待されたことでした。人に必要とされるということは実に有り難いことで、求められるのであれば専門家への途を追求しなければならないという気持ちもあります。ただ同時に、私が他の専門家と本質的に異なる貢献ができる可能性があるとすれば、それは学者としてです。この基本認識をいかに踏み外さずに仕事をするか、これは政策学をやっている者にとっては宿命的な問題かもしれませんが、私も現在深い悩みのなかにいます。

2 件のコメント:

  1. たぶん、猪飼さんの問題提起が斬新なものであるだけに、旧来の専門家の提言に飽き足らない医療関係者が足を運んだのでしょうね。

    医療政策ならびに福祉政策の分野は新しい局面に入っており、従来の「専門家」の分析が役に立っているとはいえません。それだけに面白いともいえますし、現場の危機感も相当なものです。ぜひ今後も情報発信を御願いします。

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  2. 突然コメントすみません、一介の大学院生です。
    ミシェル・フーコーの研究をしていてフーコーの「十八世紀における医療政策」という論文を紹介したとき、専門家の人に「何の役に立つんだ」と言われてもどかしい感覚を受けました。ずっともやもやしてましたが、猪飼さんの記事を見てしっくり来ました。
    それだけなのですが、大変救われた気持ちです、ありがとうございました。

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