2017年6月14日水曜日

地域包括ケア政策の総括から共生社会へ

以下は、『月刊/保険診療』2017年6月号に掲載された文章です。ご引用に際しては、掲載誌をご参照頂ければ幸いです。

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地域包括ケア政策の総括から共生社会へ(pdf版

1. 地域包括ケア政策の停滞
2010年に『病院の世紀の理論』を上梓して以降,筆者は,地域包括ケアの理論的基盤を構築した研究者であると評されるようになったように思われる。それが正当な評価だったかどうかは筆者自身が判断すべくもないが,折に触れ筆者の示してきた見解の要諦を示せば,どのようなケアが良いケアとして社会的に評価されるかには,歴史的な大きな趨勢がみられ,20-21世紀転換期以降の大きな趨勢は,個人の生活的価値(QOL)を実現することを目指すケアへの評価が高まっていく方向にあるということであった。この歴史的潮流を筆者は「生活モデル化」と呼んできた1)。

政策的な含意としていえば,広義の福祉政策は一般的に,生活モデル化の歴史的潮流の方向に合致することが要請されるということになる。もし歴史が示す方向と異なる方向に政策を進めていくと,長期的には人々にとって不満足な福祉が実現してしまうか,修正のために多大な経済的・社会的コストを払うことになる。このような事態が生ずるわかりやすい例は少子化対策の失敗であろう。きわめて長期に渡って日本社会は,政策の失敗のツケを払い続けることになってしまった。

この観点から,地域包括ケア政策を評価すれば,基本的には歴史の潮流に合致している意味において正しい方向に進んでいると評価することができよう。その意味では,地域包括ケアはそれ自体が未来への投資としての資格を有している。

ただ,その一方で,地域包括ケア政策は,生活モデル化を推進すること自体を政策目的としては明示していない。地域包括ケア研究会の座長を務めてきた田中滋が,地域包括ケア政策とは「地域作りの目標を多義的に示した“公案”なのである。当然現実の取り組みが進展すると共に目標の表現も進化(変化?)していく」2)と述べたように,それは地域作りに関する様々な政策ニーズのプラットフォームであり,そこに一貫した政策目的を見出すことはできない。

このような地域包括ケア政策を全体としてどのように総括的に評価すればよいだろうか。

ここで考えておきたいのは,地域包括ケア政策は,介護保険政策の後継に位置づけられた政策だということであるが,この2つの政策には大きな違いがみられるということである。介護保険制度は,様々な批判は受けつつも,わずか数年のうちに,制度自体の存在価値を疑う人がほとんどなくなるほど,日本社会に不可欠な制度として定着していった。その意味では,介護保険政策は紛れもなく大成功の政策であった。これに対し,地域包括ケア政策は,それが本格的に推進されるようになって5年以上経つが,自治体関係者の間でもそれがいかなる政策であるのかについての共有が進んでいるとは言えず,まして国民の間では「地域包括ケア」という名称すら浸透してはいない。

この両者の違いは何に原因するのだろうか。筆者の理解では,この彼我の差は,すなわち地域包括ケア政策が生活モデルを原則とするものとして貫徹しなかったこと,およびその原因にあると考えている。以下では,この点を論じていきたい。

2. 地域包括ケア政策の目的喪失
少し振り返ってみよう。「地域包括ケア」が政策課題として明確なかたちで提起されたのは,地域包括ケア研究会による2009年報告書以降のことである3)。以降継続的に刊行されていった同会による一連の報告書をみると,基本的に,人口が高齢化するなかで,いかに効率的にケア需要を賄いつつ,同時に高齢者の生活的価値(QOL)を守るかということが議論されていたと言ってよいだろう。問題はこの構図が何を意味するかである。

まず留意しておくベきことは,「高齢化対策」という言葉には2通りの解釈があるということである。一つは,人口高齢化の主要な問題が,対応するシステムの効率化を要請しているという解釈である。この場合,高齢化対策とはケアシステムの効率化によって高齢化に対抗するという意味になる。これに対し,もう一つは,高齢化に伴う需要増に資源的手当をするということを対策とする解釈である。この場合,システムが結果として効率化しなくとも,どこからか資源を調達してきて高齢者に提供できればそれでよいということになる。

政策過程においては,初期には前者の可能性が追求された。地域資源を予防機能に活用する,ケアを地域に移すことによって急性期病院における不要あるいは不適切と考えられる医療費を抑制するなど,地域ケア化・包括ケア化することによる費用的なメリットをできる限り見出すことを通じて,ケアシステムの効率化が地域包括ケアによって実現するということを示そうという努力が行われたのである。だが,残念なことに,しだいに地域包括ケアは当初言われていたようなコストの抑制効果はなく,より効率的なケアシステムの構築という意味における高齢化対策とはならないということが明らかになっていった。

その結果,地域包括ケアは,高齢者を対象とした資源整備を中心としつつ,そのなかでできるだけ良好なケアが実現することに留意するといった内容の政策となったのである。だが,そうなると一つの大きな問題が生じてくることになる。すなわち,従前のケアシステムをわざわざ地域全体を舞台とするケアシステムに移行させる理由がわからなくなるのである。もし,例えば2025年までに介護需要を賄うための資源を整備することそれだけが課題であるのであれば,ケアを地域ベースに移行させることは正しい政策ではない。というのも,地域ケアに移行させることによって,大量の追加的なマンパワーが必要となり,人的資源調達はより困難になるからである。むしろ,地域包括ケアは構築しないことがよりよい対策になってしまうのである。

ケアシステムを地域ケア化することを正当化する根拠は,実は一つしかない。それは,地域的にケアすることが当事者の生活的価値を実現するうえで基本的に望ましいということである。この正当性は,生活モデル化が保証してくれるものである。だが,地域包括ケア政策においては,これまでのところ,生活モデル化によって政策を明確に根拠付けるということは行われていない。

3. 政策目的の喪失がもたらしたもの
では,地域包括ケア政策の目的が不明確であることによって,どのような現実の問題が起きたと言えるだろうか。以下少し立ち入って検討してみよう。

第1に,概して,地域包括ケアの実施主体とされた基礎自治体の熱意を引き出せなかったことである。地域包括ケアは従来,施設ケアの領域に集中していた支援を必要とする人々の地域への分散を伴うものであり,このようなケアを成立させるためには,大きな移動のコストと,移動の非効率化に伴うマンパワーの増強,さらにそれらの諸人材の密接な連携,さらには地域社会からの広範な協力の調達を必要とする(これらはすべてコストである)。その意味では,実施主体とされる自治体関係者にとってみれば,よほどのメリットが見えなければ,そのようなケアシステムを真面目に構築したいとは思わないだろう。高齢化対策になると言われても,目に見えて自分の町のケアシステムが非効率的になることがわかっている以上,それが説得力をもたないことは明らかであった。

第2に,政策目的が明確化されていなかったために,具体的な施策の是非,取捨選択を評価する準拠点が存在しなかったことである。地域包括ケアシステムは地域の実情に合わせて違うものを構築していくことが推奨されているため,施策の外形的内容を指定していくという方法は抑制された。このことは,指示されたとおりに事業を実施することに慣れていた自治体にとっては,「親離れ」にも似た困難ないし挑戦をもたらすものであったことは確かだが,それでも作り上げようとするシステムの性格から言えば,当然の方法であったとも言える。

ただし,施策の具体的内容が自治体の判断に委ねられる以上,具体的な施策の是非を評価する原則を指定しておかなければならない。ところが,政策目的が明確化されていなかったため,外形的な方法に替わって政策内容を規律する原則もまたはっきりしなかった。その結果,自治体関係者は,何をすれば地域包括ケアシステムを構築したことになるのか,という入口のところで困惑することになったのである。

逸話的な話を挟んで恐縮だが,筆者が地域包括ケアに関する講演に呼ばれた際,今日まで決まって示されてきた疑問は,「地域包括ケアシステムとは何でしょうか」というものであった。また,自治体によっては,地域包括ケアをケアの財政負担を引き下げるための制度であるとの解釈に基づいて,要介護認定率を引き下げるなど介護保険制度の外部に当事者を押し出すことを第一の政策目的と位置づけて施策を推進したところもあったように見える。これもケアシステム構築の原則が示されていないことに起因するもう一つのリスクであると言える。

第3に,目的が正当化できないにもかかわらず,地域包括ケア政策と高齢化対策がイメージとして結びつけられ続けたことで,ケアシステムの効率化にとって阻害要因になった可能性である。いわゆる「2025年問題」の喧騒を思い出してみよう。地域包括ケアを2025年までにシステムとして完成させることが,高齢化に伴う諸需要に備えることであるという主張がなされてきた。もちろん,介護需要などがこの時期以降にピークを迎えることは確実であり,それに向かって資源整備を進めておくことが必要であることは言うまでもない。だが,資源整備という観点からみても,地域包括ケアは,その基本的な性格からいって,むしろマンパワー不足を加速する方向に作用する。一方でマンパワー不足を加速しつつ,他方で地域住民や当事者家族の協力によって不足を賄おうという「行って来い」的な政策は,それ自体,将来予測されるマンパワー不足への対策になっていないと言わざるを得ない。
 マンパワー不足を解決する方法は,労働力を増強するか労働生産性を上げるかのどちらかだが,このいずれに対しても政策的対応が遅れてきた。筆者には,地域包括ケアシステムの構築を高齢化対策の中核に位置づける政策思考が政策立案者を支配していたために,ケアの効率化という意味における高齢化対策は,地域包括ケア政策とは別に実施しなければならないという基本的な事実が等閑視され,独立したケアの効率化の必要性がカムフラージュされてしまったように見える4)。

現実主義的な観点からみて,筆者は労働力を外国から導入できる余地は小さいとみなければならないと考えている。長期的にアジア全体が高齢化していくなかで,ケア労働者のコストは継続的に上昇していくことは確実である。そのなかで,日本が,労働力を「買い負け」る傾向を強めていくことは避けられないからである。とするなら,対策の基本はテクノロジーによる生産性の上昇ということになろう。思うに,AI技術,自動運転技術,ロボット技術などは,将来のケアコストを大幅に引き下げることが期待できる。それをいち早くケアシステムとして確立したうえで,それを諸外国に売っていく。それによって,ケアの効率化のためのコストを回収していく。このようなビジネスを加速するような環境整備こそ高齢化対策に最も必要なものであるように思われるが,比較的最近までこの点への政策的関心は低調であった。とりわけ「2025年問題」の文脈においてはこのような論点がまったく議論されていなかったことは,地域包括ケアを巡る政策思考のなかに,ケアシステムを長期的に効率化していくための社会的投資の観点が希薄であったことを意味している。

4. 政策目的喪失の原因
ここまで地域包括ケアの目的の喪失とそれがもたらしたと考えられる問題について述べた。だが,実のところ上のように評することによって政策の成否を断じてしまうだけでは,地域包括ケア政策の総括としては,やや安易なやり方であろう。というのも,現実の政策過程において,当事者の生活的価値を高らかに目的に掲げて政策を推進できる政治環境がなかった可能性があるためである。

地域包括ケア政策の推進者たちが,上のような問題に鈍感であったとは思わない。筆者の印象では,彼らも信念としては,高齢者の生活的価値を実現する地域ケア政策を作り上げることこそが本政策の真の目的であると考えていたように思う。だが,現実にはこの点を最上位の目的に掲げて政策を推進することができなかった。それはなぜだろうか。

この点を考えるには,介護保険政策と地域包括ケア政策を比較してみるとわかりやすい。介護保険制度は,導入当初から今日に至るまで様々なきびしい批判を浴びてきているが,それでも比較的短時間で日本社会に根付き,介護保険制度自体が不要だという主張はほぼ消えることになった。その意味では,介護保険政策は紛れもない成功だったということができる。制度導入10年前のゴールドプランおよびその準備の期間を合わせて約15年にも及ぶ周到な準備も効いたと思われるが,なによりも重要だったのは,日本社会に存在していた切実かつ普遍性のあるニーズを的確なかたちで捉えたことであった。急速な人口高齢化のなかで,高齢者の介護を,それを当然の義務とする社会的風潮のなかで担っていた家族の負担は,それ自体が単に深刻・切実な問題であると同時に,誰もが直面し得るという意味で普遍的な問題であった。このため,その必要性は,介護保険制度が導入されてわずか数年で自明のものとして社会に広く認められたのである。

これに対し,地域包括ケア政策はどうか。介護保険政策と比較すれば,はるかに見劣りがするということは否めない。政策が本格的に推進されるようになって5年以上の時間が経つが,相変わらず地域包括ケアの必要性という入口のところで躓いたままである。

介護保険政策にあって,地域包括ケア政策に欠けていたもの。それは,あきらかに切実かつ普遍性のある社会的ニーズの捕捉であった。だが,地域包括ケア政策にとっては,ニーズの領域が高齢者に限定されていたために,そこには介護保険制度におけるのと同じレベルの普遍的で切実なニーズは存在していなかったのである。

他方,筆者のいう生活モデル化は,長期の歴史的趨勢である。そのなだらかな性格のゆえに,現在の政策を熱狂的に推進する燃料の役割を果たすことはできない。地域包括ケア政策の目標として,人々の生活的価値の実現を掲げたとしてもそれは,介護ニーズほどの訴求力をもつことはできない。

このような状況のなか,地域包括ケア政策の推進者たちが,現実的な判断として折衷的なプラットフォームとして地域包括ケアを売り出さざるを得なかったとしても不思議ではない。ただし,そのような曖昧な地域包括ケア政策の位置づけは,結果として,政策の方向性それ自体の正しさ(生活モデル化の観点からみて)にもかかわらず,国民の無関心,行政の不熱心,混乱,誤解,真に必要な高齢化対策の停滞という状況を生み出したと言えるのではないか。その意味では,地域包括ケア政策は,抜本的な再構築を必要とする時期に来ていると評価すべきであるように思われる。

5. 共生社会からの再出発
このような手詰まり感のある状況にあって提案されたのが共生社会論である。それは,2016年7月に「我が事・丸ごと」地域共生社会実現本部が厚労省に設置されて以降,議論が始まっているものであり,発表されている資料によれば,2020年頃から従来の地域包括ケアシステムを「深化」させるかたちで,多様な社会福祉施策と一体化しつつ統合的な地域ケアを順次構築していくということになっている。ここで重要なのは,この政策が,すべての世代・すべての生活課題を対象とする政策であり,それは高齢化対策よりもはるかにスケールの大きな生活保障政策の全体的な再構築に関する政策になり得る可能性を秘めているということである。

筆者の理解では,これは地域包括ケア政策にとって一つの好機であるように思われる。「共生社会論」のなかに地域包括ケアを再定位させることで,これまでのボタンの掛け違いを修正して,従来の高齢化対策としての政策から,より大きな生活保障の一翼としての政策へ位置づけ直すことのできる可能性があるからである。

当初の提案内容や,様々な検討会議で議論されている内容についてはひとまず措こう。今のところ萌芽的に過ぎるために,具体的な施策のレベルで課題をいちいち指摘しても仕方がない段階だからである。

そのうえで,ここではひとまず政策としての基本的な「素性」の良さについてのみ議論するが,まず第1に,地域包括ケアと同様に,共生社会において包含されるとされる生活困窮者自立支援制度,障害者総合支援制度,児童福祉,自殺対策,ホームレス自立支援制度などは,いずれも生活モデル化という政策的方向を共有する制度とみることができることから,一つの政策目的を共有する制度群として統合可能だということである。言い換えれば,共生社会に関する大きな政策を,全体として生活モデル化によって正当化することができるということである。と同時に,第2に,地域包括ケアにおいては高齢者のような特定のカテゴリーに施策を限定することによって困難となっていた,生活モデル的政策であると同時に、人々の切実かつ普遍的なニーズを捕捉することが,共生社会論のようにすべての世代,すべての生活困難に対象が広がることによって可能になるということである。

生活モデル化に合致しつつ,なおかつ人々にとって切実かつ普遍的なニーズ,そのようなものは見つかるか,と懐疑的な向きもあるかもしれない。もし見つからなければ,共生社会論の置かれる構図は,地域包括ケア政策と同じということになり,政策のスケールが大きい分,より困難に直面することになるだろう。その点から言えば,ここで政策の要請に適合しうる有力な候補が少なくとも一つは存在するということは示しておく必要があるかもしれない。

私の理解するところでは,戦後70年余に渡って張ろうとして張りきれなかったセーフティネットを,生活モデルの原則に沿って張り切ることを目指す政策は,その候補の一つであると思われる。戦後日本における広義の社会保障は,ナショナルミニマム(最低生活水準)を基準として,それ以下の経済水準の人々を最低限度まで引き上げる(救貧)とともに,社会保険などを活用して,最低限度以上の生活水準にある人々が最低生活水準以下に転落することを予防する(防貧)ことで,セーフティネットを張ることを目指してきた。だが,その結果として,①制度の隙間をすり抜けて困窮する人々,②ナショナルミニマム以下の生活水準にありながら支援を受けられない人々,③非経済的な理由で生活困難に陥る人々が各所に存在するという,およそ生存権保障の理念からかけ離れた不完全なセーフティネットしか張ることができなかった,ということは紛れもない事実である。

社会保障が不要であったということでは無論ない。だが,それは人々の抱える生活問題の全体からみれば,目立ったテーマを虫食い的にカバーできたに過ぎないとも言える。これに対して,共生社会政策は,全世代・全生活問題を対象とする政策であるから,少なくともこのような従来の社会保障の限界を明確なかたちで突破することが要請される(図表)。

誤解を恐れずに単純化して言うならば,従来の社会保障が突破できなかった生活問題の領域に広がっているのは,単に従来の社会保障が対象としてきた生活するための資源が不足しているということではない。むしろ,今日の生活困難は,自らが生きる途を独力で見つけ出していくことができないことにこそ起因している。例えば貧困のように,基本的には生活手段が不足していることが主要な問題に見えるような生活困難でも,ただ生活手段を提供すればそれで当事者が安定的に暮らしていけるようになるのではない。そこには,往々にして複雑に絡まりあった困窮の要因を解きほぐし,当事者にとっての着地点となり得る暫定的な支援目標を見出し,複雑な世界に立ち向かう意欲を回復させていく丁寧で時間をかけた支援が必要となる。このような支援は「寄り添い」とか「伴走」と呼ばれるものであり,これこそ本稿において繰り返し言及してきた生活モデルによる支援作法の中核的内容にほかならない。
図表

人生には様々な悩みや苦しみがつきまとう。おそらく誰でも,家族・仕事・友人関係・アイデンティティその他様々な契機から,他人には容易に明かせないような深い悩みや苦しみを抱え込む経験をするだろう。時としてそれは自身の努力によっても,また時には努力すればするほど状況がこじれていく。しかも,それらの生活上の問題は,必ずしも経済的な困窮に起因したり,帰着したりするわけではない。つまり,人生・生活とは貧乏人であれ,社会的な強者とみなしうる人であれ,誰でも困難になったり破綻したりしうるものなのである。

ここで,このような誰にでも降りかかりうる生活困難に対して,すべての当事者が必要に応じて,伴走的に支援する支援者を手にすることができれば,それは,戦後70年間の努力によっても張りきれなかったセーフティネットが,生活モデルに基づく新しい構想によって張り直されたということになるであろう。そしてそれは,共生社会というスケールの大きな政策に似つかわしい,切実かつ普遍的なニーズへの回答となるのではなかろうか5)。そして,筆者の理解では,地域包括ケア政策のなかで営まれた努力の成果を,上のようなビジョンに基づく共生社会政策の土台として流し込むことによって,高齢化対策という軛から地域包括ケアを解放することが,自然なかたちでできるように思われる。

6. 結語
地域包括ケア政策は,全体としては間違った方向の政策ではなく,おそらくは歴史的な検証のなかでその意義に一定の評価が与えられることになるであろう。ただ,同時にそれが今日踊り場に立ち至っている(停滞している)と認識され,またその理由に関しても同時に理解される必要があることも確かなことであろう。これまでの地域包括ケア政策をいかに引き継いでいくべきかについての議論が深まっていくことが期待される。

《文献》
1) 猪飼周平「地域包括ケアシステムの展望へ」(高橋紘士・武藤正樹編『地域連携論』オーム社,2013年,終章),猪飼周平「地域包括ケアの社会理論への課題」『社会政策』第2巻第3号2011年,猪飼周平『病院の世紀の理論』有斐閣,2010年。生活モデルをより厳密なかたちで述べたものとしては,猪飼周平「ケアの社会政策への理論的前提」『社会保障研究』1巻1号, 2016年がある。
2) 田中滋「超高齢社会における地域の力:地域包括ケアシステム構築にあたって」(医療政策会議報告書「高齢社会における経済的・文化的・医学的パラダイムシフト」2016)。
3) 地域包括ケア研究会「地域包括ケア研究会報告書 〜今後の検討のための論点整理〜」2009年。
4) この観点に基づいて行われた座談会が「通過点としての2025年:介護ロボットと自動運転のあるSFじゃない「地域包括ケア」の未来」『訪問看護と介護』Vol.20, No.1, 2015年であった。
5) この論点についてより立ち入った議論に関心のある方は,猪飼周平「ケアの社会政策への理論的前提」『社会保障研究』1巻1号, 2016年,猪飼周平「逆算的リアリズムからの生活保障」生活経済政策 (234), 5-10, 2016-07を参照されたい。また,これらとは別に,この論点を社会福祉の学説史との関係で述べたものとして,猪飼周平「「制度の狭間」から社会福祉学の焦点へ:岡村理論の再検討を突破口として」『社会福祉研究』 通巻122号, 2015年がある。

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