拙著『病院の世紀の理論』の重版が決定しました。類書がなく、またディシプリンとしても歴史、社会学、政策学を横断する本書を、どの程度の方が読んで下さるのだろうかと思っていました。ところが、思いがけないことに、狭いアカデミックサークルを越えて多くの方々がお読み下さる結果となりました。その中には、医療関係者、行政関係者の方々も含まれ、本著の出版を契機に多くの方々の知己を得ることができました。
そしてとくに有り難いことに、将来を担う若い大学院生が批判的精神をもって丹念に読で下さっていると伺っています。本書が何らかの学術的貢献を果たし、やがて次代の研究の中に溶け込んでゆくことができればこれに過ぎたることはありません。
本書を支えて下さった皆様には、重版決定のタイミングを借りて心より御礼申し上げます。
ところで、『病院の世紀の理論』は各所において不十分な著作ですが、それでもこれを書くまでに10年かかりました。これだけの時間がかかったのはなぜでしょうか。
大学院生時代に素朴に思っていたこととして、偉大な研究者であれそうでない研究者であれ、体系的な研究成果という点では、一人の社会科学者が生涯をかけても、せいぜい2,3冊の著作しか残すことができないのはなぜかという問いがありました。研究者には、派生的な著作を多く残す多産なタイプと、寡作なタイプがありますが、いずれにせよ、一人の研究者による本質的な知的貢献については、2,3回が限界のように思われます。
上の問いに対して、この度研究書を執筆した経験から、1つの仮説を提出しておきたいと思います。それは、研究者の認識の深化を速める有効な手段はないというものです(遅くする方法はいくらでもありますが)。私の場合、熱心に読書をしていても、散歩をしていても、「ああそうか」という気づきはポツリポツリとある程度の間隔をおいて現われました。これを速める方法はないものかと工夫しようとしたこともありますが、ここまでのところポツリポツリで来ています。おそらく、研究のフロンティア(誰も先人が考えていない問いの領域)を前に進むのは、一歩一歩しかないということなのだと思います。
これは、私の恩師の一人である岩井克人が、「社会科学は時間がかかる。若くて高い知見に達することはできない」と言っていたことに対応しますし、ワープロが普及し、論文や本が技術的に大幅に書きやすくなったにもかかわらず、画期的な著作が出現するペースが速くなっているようにみえないこととも対応すると思います。とすれば、この仮説は多少もっともらしいということになるかもしれません。結局のところ、現代の研究者は、かつてよりも小仕事が上手くなっただけというのが真実なのかもしれません。
今次の本を書くのに結局10年かかりました。30年研究するとすれば、ひとまとまりの研究は3回が限界ということになります。
2010年10月26日火曜日
2010年10月16日土曜日
外国からの制度移植の限界について
上川病院理事長の吉岡充さんにお会いする機会がありました。拘束外し問題、療養病床の存続問題、施設ケアの未来等議論は多岐にわたりましたが、その中で吉岡さんがいわれた「高齢者の取り扱いで欧州から学ぶべき点はもうあまりない」という発言は大変興味深いものでした。補足しておきますと、日本の高齢者医療・福祉にとって欧州から学ぶべきことがないという趣旨というよりは、日本にもってきて簡単に移植することができるような都合のよい制度上の発見を、欧州諸国の事例に見出すことは難しくなっているという趣旨だったと、私は理解しています。
諸外国の事例に倣って制度設計するということは、政策上の常套手段にすぎません。実際、先行事例があるのであれば、それを分析するのは当然であり、そこから様々なアイデアを拝借することも制度導入のリスクを軽減する上で有効であることはたしかです。そのこと自体が問題ではありません。むしろ問題はそのような政策手段をめぐる環境の変化に関するものです。すなわち、高齢者医療・福祉の領域において先行事例から学習することができない、いいかえると日本社会自身が先行事例とならなければならない状況が強まってきているのではないかということです。それは、日本社会が諸外国を模倣することができず、また放置することもできない課題の重要性が増しつつあるのではないか、といいかえることもできます。
日本が超高齢社会を潤沢な移民の流入なしにいかに乗り切ることができるかといった課題は、その典型でしょう。おそらく日本は、この問題を最初に解決しなければならない社会になると思われます。現在フィリピンやインドネシアからのケアワーカーの導入が制限的に行われていますが、将来規制を大幅緩和しても、彼らが日本に来てくれる保証はありません。長期的には、日本とアジア各国との間の経済格差は縮まる方向に進むと同時に、他のアジア各国でも高齢化が急速に進展してゆくからです。長期的にはケアワーカーの日本へのプッシュ圧力は(現在でも大したことありませんが)一層弱まることが予想されます。とすれば、日本社会が豊かさを維持しながら超高齢社会に対抗するためには、医療・介護サービスの労働集約的性格を緩和する技術革新が必須ということになります。この日本に課せられた条件は、欧米諸国におけるそれとは全く異なるものであり、日本社会は独自の解決策を求めなければなりません。
もし、日本社会が解決策を見出すことに成功すれば、それは日本に続いて移民抜きで高齢化する多くの国々に対する偉大な貢献ということになると同時に、そこにはビジネスチャンスも開かれるでしょう。その意味では、日本独自の課題に積極的に取り組むことは、日本社会・日本経済に新たな可能性を開くものでもあります。
このような可能性を獲りに行く政治・行政とはどのようなものであるべきでしょうか。従来の日本の政治・行政はこのような課題への対応に必要な大きな戦略の立案を苦手としてきたといえるでしょう。「政治主導」はこのような状況を克服することを目指していたはずですが、今のところうまくいってはいないようです。とはいえ、この問題は民主党に責任を負わせれば済む話ではありません。最終的にはその責任を日本社会が全体として負うことになるわけですから。
諸外国の事例に倣って制度設計するということは、政策上の常套手段にすぎません。実際、先行事例があるのであれば、それを分析するのは当然であり、そこから様々なアイデアを拝借することも制度導入のリスクを軽減する上で有効であることはたしかです。そのこと自体が問題ではありません。むしろ問題はそのような政策手段をめぐる環境の変化に関するものです。すなわち、高齢者医療・福祉の領域において先行事例から学習することができない、いいかえると日本社会自身が先行事例とならなければならない状況が強まってきているのではないかということです。それは、日本社会が諸外国を模倣することができず、また放置することもできない課題の重要性が増しつつあるのではないか、といいかえることもできます。
日本が超高齢社会を潤沢な移民の流入なしにいかに乗り切ることができるかといった課題は、その典型でしょう。おそらく日本は、この問題を最初に解決しなければならない社会になると思われます。現在フィリピンやインドネシアからのケアワーカーの導入が制限的に行われていますが、将来規制を大幅緩和しても、彼らが日本に来てくれる保証はありません。長期的には、日本とアジア各国との間の経済格差は縮まる方向に進むと同時に、他のアジア各国でも高齢化が急速に進展してゆくからです。長期的にはケアワーカーの日本へのプッシュ圧力は(現在でも大したことありませんが)一層弱まることが予想されます。とすれば、日本社会が豊かさを維持しながら超高齢社会に対抗するためには、医療・介護サービスの労働集約的性格を緩和する技術革新が必須ということになります。この日本に課せられた条件は、欧米諸国におけるそれとは全く異なるものであり、日本社会は独自の解決策を求めなければなりません。
もし、日本社会が解決策を見出すことに成功すれば、それは日本に続いて移民抜きで高齢化する多くの国々に対する偉大な貢献ということになると同時に、そこにはビジネスチャンスも開かれるでしょう。その意味では、日本独自の課題に積極的に取り組むことは、日本社会・日本経済に新たな可能性を開くものでもあります。
このような可能性を獲りに行く政治・行政とはどのようなものであるべきでしょうか。従来の日本の政治・行政はこのような課題への対応に必要な大きな戦略の立案を苦手としてきたといえるでしょう。「政治主導」はこのような状況を克服することを目指していたはずですが、今のところうまくいってはいないようです。とはいえ、この問題は民主党に責任を負わせれば済む話ではありません。最終的にはその責任を日本社会が全体として負うことになるわけですから。
2010年10月12日火曜日
研究会とつまみ食い
今回は、研究会等で私が本当に危うさを感じる参加者の態度の1つについて述べようと思います。なお、ここでいう対象の参加者とは、研究者、研究者志望の学生を指しています(内容からお分かりになると思いますが実務家は含まれません)。
学会レベルでも大学院・学部のゼミレベルでも、報告者が自分の研究を報告し、それに対し参加者がコメントしたり、それをめぐって議論したりすることを想定した研究会というものが頻繁に開かれています。そのような研究会では、自分の研究に役立ちそうなことについての知識や情報をつまみ食いして帰ろうとする参加者の姿が散見されます(以下「つまみ食い者」と表記)。
彼らは、報告者の研究の中核部分について言及する代わりに、自分の問題意識からみて有用でも、報告者にとっては周縁的な知識や情報について質問します。「興味深いお話ありがとうございました。ところで~~についてお考えがあれば教えて下さい」式の質問をする人がその典型です。これは、その人が、研究会を自分の研究に役立ちそうな知識や情報をつまんで帰る場であると思っているということの表れです。
私が彼らのようなつまみ食い者に危うさを感じるのは、彼らが研究会に貢献していないということでも、彼らがエゴイストであるということでもありません。問題なのは、彼らがエゴイストとして採るべき態度を間違えているか、彼らがエゴイストとして合理的な態度がつまみ食いに帰着するような研究外的理由をもっているかのどちらかであるということです。
私の知識が社会科学に限定されているという前置きをした上で申しますと、研究で一番難しいのが、問題意識と研究(作業としての)の深化のサイクルに取り付くことであるといえます。うまくゆく場合、問題意識は研究が進展するにつれ深化してゆきます。そして問題意識が深化することで、次に行うべき研究の方向が示されます。その意味で問題意識と研究を往復させながら両者を成長させてゆくのが研究(全プロセスを含む)だといえます。
さて、研究の過程で頻繁に起こりかつ最も深刻な問題と引き起こすのが、ある問題意識の下ではこれ以上研究が進まないという状況です。得られる帰結がつまらなかったり自明のもののように感じられるという問題意識の意義に関わる壁もあれば、現在の問題意識では資料を集めることが難しいという物理的な壁である場合もあります。問題意識が実証性を失う方向に進んでいるというような場合もあります。いずれにせよ、このような状況において必要なことは、これまでのサイクルで形成した研究の継続性を損なわないようにしながら、壁を打ち破る問題意識を再構築することです。その意味で、学者にとってもっとも重要な訓練は、問題意識を自在に構築・調整する能力の形成であるということになります。
この観点からみると、研究会では、報告者の研究の中核を構成する問いをどのように改善すれば研究がもっと良くなるかを考えることを通じて、研究会をエクササイズの場として活用することが最もエゴイストとして合理的であるということになります。特に他人の研究については、自分の研究を縛りがちな自分の道徳心や義務感から自由になって眺めることができますので、自分の研究を反省する以上によい練習になる場合もあります。
これに対し、つまみ食い者の態度には、自分の研究について固定化された問題意識があって、それとの関係で情報を取捨選択しようとしていることがみてとれます。少なくとも、上のような訓練に参加していません。自分の問題意識が研究上の困難を引き起こすという状況が頻繁におこるかというを認識していないか、軽視している可能性が高いといえます。
問題意識の形成力がないと、問題意識を他者による評価に委ねることになり、結局のところ現在流行っている課題に取り組むことにならざるを得ません。ただ、そのような流行の課題は移ろいますので、研究者も流行の課題を追って研究テーマを動かして行かざるを得ず、気がついてみると継続性を欠いた研究をする羽目に陥る危険がきわめて高くなります。
このような流行のフォロワーとしての立場は、本人にとっても大変苦しいだろうと思いますが、それだけではありません。継続性を欠く研究には、もっと大きな問題があります。それは、研究のオリジナリティの最大の源泉を活用できないところにあります。あまり広く合意されていないとは思いますが、私は、継続性こそが研究のオリジナリティの最も普遍的な源泉だと確信しています。長い時間をかけて徹底的に行われた研究は、気がつくと誰も真似できない地点に到達します。このタイプのオリジナリティの生み出し方は、自然な思考を積み上げて知識の高みに到達しようとする社会科学の基本戦略に叶っている点で自然なオリジナリティ戦略である(2010年5月3日投稿「恐竜の内輪差と社会科学」参照)だけでなく、基本的に剽窃できないという利点もあります(他者の知見を借用しようとする研究者には、そのことを真剣に考えている研究者ほど、徹底的に研究しようとする覚悟を形成することはできないため)。
総じて、問題意識と研究(作業としての)のサイクルをしっかり回し続けることで、研究にはオリジナリティが生まれ、また研究テーマの剽窃からも守られます。そしてこのサイクルを回すためには、研究会における訓練ほどおあつらえ向きな機会はないのです。したがって、エゴイストにとっても、優れた研究への野心を持つかぎり、報告者の研究がいかにすればより良いものになるかを考えることが、結果的に最も合理的な選択ということになるのです。その意味では、つまみ食い者は、自分の置かれている状況認識を誤っているエゴイストか、優れた研究をするということとは異なる目標をもつエゴイストということになります。
ただ、ここまで述べてくると明らかなことだと思いますが、研究会において危うい態度で臨んでいるのは、つまみ食い者だけではなく、むしろ彼らは危うさをわかりやすく表現している典型例にすぎません。研究会に最も多いタイプの参加者である終始沈黙を守る者の一定部分もこの種の人びとであるといえるでしょう。その意味では、「不適切」なエゴイストは、研究者の中に広く浸透したあり方であるようにみえます。
私が大学院生の時分に、ある研究会で、当時すでに大学教員となっていたある中堅研究者の報告の席で、参加者からある本質的な問題点を指摘されて、思わず「あっ」と言ったきり絶句する現場を目撃したことがあります。その瞬間、その研究者が10年以上にわたって続けてきた研究が、全く失敗であったことが明らかになったわけですが、今から思うと、彼が関わってきたであろう研究会に、もっと「適切」なエゴイストがいれば、もっと早く研究を立て直すことができたのではないかと思います。
学会レベルでも大学院・学部のゼミレベルでも、報告者が自分の研究を報告し、それに対し参加者がコメントしたり、それをめぐって議論したりすることを想定した研究会というものが頻繁に開かれています。そのような研究会では、自分の研究に役立ちそうなことについての知識や情報をつまみ食いして帰ろうとする参加者の姿が散見されます(以下「つまみ食い者」と表記)。
彼らは、報告者の研究の中核部分について言及する代わりに、自分の問題意識からみて有用でも、報告者にとっては周縁的な知識や情報について質問します。「興味深いお話ありがとうございました。ところで~~についてお考えがあれば教えて下さい」式の質問をする人がその典型です。これは、その人が、研究会を自分の研究に役立ちそうな知識や情報をつまんで帰る場であると思っているということの表れです。
私が彼らのようなつまみ食い者に危うさを感じるのは、彼らが研究会に貢献していないということでも、彼らがエゴイストであるということでもありません。問題なのは、彼らがエゴイストとして採るべき態度を間違えているか、彼らがエゴイストとして合理的な態度がつまみ食いに帰着するような研究外的理由をもっているかのどちらかであるということです。
私の知識が社会科学に限定されているという前置きをした上で申しますと、研究で一番難しいのが、問題意識と研究(作業としての)の深化のサイクルに取り付くことであるといえます。うまくゆく場合、問題意識は研究が進展するにつれ深化してゆきます。そして問題意識が深化することで、次に行うべき研究の方向が示されます。その意味で問題意識と研究を往復させながら両者を成長させてゆくのが研究(全プロセスを含む)だといえます。
さて、研究の過程で頻繁に起こりかつ最も深刻な問題と引き起こすのが、ある問題意識の下ではこれ以上研究が進まないという状況です。得られる帰結がつまらなかったり自明のもののように感じられるという問題意識の意義に関わる壁もあれば、現在の問題意識では資料を集めることが難しいという物理的な壁である場合もあります。問題意識が実証性を失う方向に進んでいるというような場合もあります。いずれにせよ、このような状況において必要なことは、これまでのサイクルで形成した研究の継続性を損なわないようにしながら、壁を打ち破る問題意識を再構築することです。その意味で、学者にとってもっとも重要な訓練は、問題意識を自在に構築・調整する能力の形成であるということになります。
この観点からみると、研究会では、報告者の研究の中核を構成する問いをどのように改善すれば研究がもっと良くなるかを考えることを通じて、研究会をエクササイズの場として活用することが最もエゴイストとして合理的であるということになります。特に他人の研究については、自分の研究を縛りがちな自分の道徳心や義務感から自由になって眺めることができますので、自分の研究を反省する以上によい練習になる場合もあります。
これに対し、つまみ食い者の態度には、自分の研究について固定化された問題意識があって、それとの関係で情報を取捨選択しようとしていることがみてとれます。少なくとも、上のような訓練に参加していません。自分の問題意識が研究上の困難を引き起こすという状況が頻繁におこるかというを認識していないか、軽視している可能性が高いといえます。
問題意識の形成力がないと、問題意識を他者による評価に委ねることになり、結局のところ現在流行っている課題に取り組むことにならざるを得ません。ただ、そのような流行の課題は移ろいますので、研究者も流行の課題を追って研究テーマを動かして行かざるを得ず、気がついてみると継続性を欠いた研究をする羽目に陥る危険がきわめて高くなります。
このような流行のフォロワーとしての立場は、本人にとっても大変苦しいだろうと思いますが、それだけではありません。継続性を欠く研究には、もっと大きな問題があります。それは、研究のオリジナリティの最大の源泉を活用できないところにあります。あまり広く合意されていないとは思いますが、私は、継続性こそが研究のオリジナリティの最も普遍的な源泉だと確信しています。長い時間をかけて徹底的に行われた研究は、気がつくと誰も真似できない地点に到達します。このタイプのオリジナリティの生み出し方は、自然な思考を積み上げて知識の高みに到達しようとする社会科学の基本戦略に叶っている点で自然なオリジナリティ戦略である(2010年5月3日投稿「恐竜の内輪差と社会科学」参照)だけでなく、基本的に剽窃できないという利点もあります(他者の知見を借用しようとする研究者には、そのことを真剣に考えている研究者ほど、徹底的に研究しようとする覚悟を形成することはできないため)。
総じて、問題意識と研究(作業としての)のサイクルをしっかり回し続けることで、研究にはオリジナリティが生まれ、また研究テーマの剽窃からも守られます。そしてこのサイクルを回すためには、研究会における訓練ほどおあつらえ向きな機会はないのです。したがって、エゴイストにとっても、優れた研究への野心を持つかぎり、報告者の研究がいかにすればより良いものになるかを考えることが、結果的に最も合理的な選択ということになるのです。その意味では、つまみ食い者は、自分の置かれている状況認識を誤っているエゴイストか、優れた研究をするということとは異なる目標をもつエゴイストということになります。
ただ、ここまで述べてくると明らかなことだと思いますが、研究会において危うい態度で臨んでいるのは、つまみ食い者だけではなく、むしろ彼らは危うさをわかりやすく表現している典型例にすぎません。研究会に最も多いタイプの参加者である終始沈黙を守る者の一定部分もこの種の人びとであるといえるでしょう。その意味では、「不適切」なエゴイストは、研究者の中に広く浸透したあり方であるようにみえます。
私が大学院生の時分に、ある研究会で、当時すでに大学教員となっていたある中堅研究者の報告の席で、参加者からある本質的な問題点を指摘されて、思わず「あっ」と言ったきり絶句する現場を目撃したことがあります。その瞬間、その研究者が10年以上にわたって続けてきた研究が、全く失敗であったことが明らかになったわけですが、今から思うと、彼が関わってきたであろう研究会に、もっと「適切」なエゴイストがいれば、もっと早く研究を立て直すことができたのではないかと思います。
2010年10月6日水曜日
助産師に期待される母親をつくる役割
『助産雑誌』2010年10月号に、拙著「ヘルスケアの歴史的転換と助産師」が掲載されました。これは、ゆえあって去る3月の助産学会のパネルに呼ばれた際に、私からみると、助産師の潜在的な可能性は、分娩よりも母親をつくる部分にあるようにみえる、という議論をしたことが発端となって実現したものでした。医学書院の担当者が私の議論を面白がってくださったことから、「母性・父性をはぐくむ 助産師に求められる役割」という特集に加えて頂くことになりました。
助産師の多くは、基本的に分娩に際しての技倆に強い誇りをもっているようにみえます。助産師は、妊娠時から産後に至るまで比較的長期にわたって妊産婦に関わりますが、時間軸上の1点である分娩がそれほど重要なのか、この点については今のところ私にはよく理解できていません。ただ、いずれにせよ助産師のみなさんの職業アイデンティティを支える中心が分娩にあるということはたしかなようです。
問題は、このような職業アイデンティティのあり方は、産科医の専門性と正面から競合してしまうということです。助産師と産科医ではどちらの方が安全なお産の支援者として優れているでしょうか。この問いに対する正解はともかくとして、一般の人びとが産科医の方がより高度な専門家であると認識していることは間違いないでしょう。そして、医学は今後とも進歩を続けますので、安全の担い手として争う限り、時間は助産師にとって不利に作用するといえるでしょう。さらに高齢出産が増え、ハイリスクの妊産婦の割合が増えて行くという事情も、人びとの産科医への依存を高める要因の1つです。したがって安全という一点で出産を捉える限り、産婦人科医の助産師に対する優位は動かしがたいとみなければなりません。
このような文脈においては、助産外来や院内助産所は、産科医不足への次善策にすぎず(最善策は産科医を増やすこと)、将来また産科医が増えて行くことがあれば、それらは「やっぱりいらない」ということにならざるを得ないということになります。
とすれば、やはり助産師は産科医に従属する存在として今後も生きて行くべきということになるのでしょうか。私は助産師には産科医には絶対真似できない独自の強みがあるように思います。それが「母親をつくる」役割です。これは現在では多くの助産師が放棄している機能で、助産師としてはきわめて少数派である開業助産師にある程度引き継がれているだけのものです。
開業助産師の仕事をみますと、妊娠から出産まで、出産という大事業の協働者として妊産婦に随伴します。一般に困難を共に乗り越える経験から強い絆が生まれる傾向がありますので、この開業助産師と妊産婦の関係は、強い紐帯を形成する可能性の高い関係であるということになります。
子どもを産んだ女性のすべてが、スムーズに母親役割に適応できるわけではありません。また相対的に母親役割をスムーズに取得した女性でも、悩みを抱えながら子育てするのが普通でしょう。女性が母親になる上でのこのような困難を緩和する上で、開業助産師が妊産婦と取り結ぶような強い紐帯は、重要な役割を果たすことが期待できると思います。
この紐帯形成の機能を職業アイデンティティの中に適切に位置づけることができたとき、助産師は母親をつくる職業となります。そして、このような職業アイデンティティは産科医には持ちえないものでもあります。さらにこのような強力な紐帯による母親支援機能は、他の福祉サービスでも実現が難しいものです。
開業助産師や助産所を増やすべきかどうかはわかりません。ただ、いずれにせよ、妊産婦に随伴する助産師をどのようにつくるかが課題とされるべきでしょう。また、ローリスク妊婦は助産師へ、ハイリスク妊婦は医師へと振り分けるというよく見受けられる考え方は、母親をつくる機能を発展させる上では阻害要因となるでしょう。母親になる上での困難を抱える女性は、ローリスク集団にもハイリスク集団にも同じ割合で含まれていると考えるべきだからです。
上の議論はまだまだ仮設的なもので、今後分厚い調査研究を積み上げて行く必要があります。とはいえ、私は今後の助産に関する政策を考えて行く上で、有効性の高い視角であると思っています。私の提示したパースペクティヴを肯定的にでも批判的にでもよいので、真剣に検討する方々が現れることを期待したいと思います。
なお、本文ではもう少しいろいろなことを書いていますので、ご関心のある方は拙稿をご笑覧いただけると幸いです。
助産師の多くは、基本的に分娩に際しての技倆に強い誇りをもっているようにみえます。助産師は、妊娠時から産後に至るまで比較的長期にわたって妊産婦に関わりますが、時間軸上の1点である分娩がそれほど重要なのか、この点については今のところ私にはよく理解できていません。ただ、いずれにせよ助産師のみなさんの職業アイデンティティを支える中心が分娩にあるということはたしかなようです。
問題は、このような職業アイデンティティのあり方は、産科医の専門性と正面から競合してしまうということです。助産師と産科医ではどちらの方が安全なお産の支援者として優れているでしょうか。この問いに対する正解はともかくとして、一般の人びとが産科医の方がより高度な専門家であると認識していることは間違いないでしょう。そして、医学は今後とも進歩を続けますので、安全の担い手として争う限り、時間は助産師にとって不利に作用するといえるでしょう。さらに高齢出産が増え、ハイリスクの妊産婦の割合が増えて行くという事情も、人びとの産科医への依存を高める要因の1つです。したがって安全という一点で出産を捉える限り、産婦人科医の助産師に対する優位は動かしがたいとみなければなりません。
このような文脈においては、助産外来や院内助産所は、産科医不足への次善策にすぎず(最善策は産科医を増やすこと)、将来また産科医が増えて行くことがあれば、それらは「やっぱりいらない」ということにならざるを得ないということになります。
とすれば、やはり助産師は産科医に従属する存在として今後も生きて行くべきということになるのでしょうか。私は助産師には産科医には絶対真似できない独自の強みがあるように思います。それが「母親をつくる」役割です。これは現在では多くの助産師が放棄している機能で、助産師としてはきわめて少数派である開業助産師にある程度引き継がれているだけのものです。
開業助産師の仕事をみますと、妊娠から出産まで、出産という大事業の協働者として妊産婦に随伴します。一般に困難を共に乗り越える経験から強い絆が生まれる傾向がありますので、この開業助産師と妊産婦の関係は、強い紐帯を形成する可能性の高い関係であるということになります。
子どもを産んだ女性のすべてが、スムーズに母親役割に適応できるわけではありません。また相対的に母親役割をスムーズに取得した女性でも、悩みを抱えながら子育てするのが普通でしょう。女性が母親になる上でのこのような困難を緩和する上で、開業助産師が妊産婦と取り結ぶような強い紐帯は、重要な役割を果たすことが期待できると思います。
この紐帯形成の機能を職業アイデンティティの中に適切に位置づけることができたとき、助産師は母親をつくる職業となります。そして、このような職業アイデンティティは産科医には持ちえないものでもあります。さらにこのような強力な紐帯による母親支援機能は、他の福祉サービスでも実現が難しいものです。
開業助産師や助産所を増やすべきかどうかはわかりません。ただ、いずれにせよ、妊産婦に随伴する助産師をどのようにつくるかが課題とされるべきでしょう。また、ローリスク妊婦は助産師へ、ハイリスク妊婦は医師へと振り分けるというよく見受けられる考え方は、母親をつくる機能を発展させる上では阻害要因となるでしょう。母親になる上での困難を抱える女性は、ローリスク集団にもハイリスク集団にも同じ割合で含まれていると考えるべきだからです。
上の議論はまだまだ仮設的なもので、今後分厚い調査研究を積み上げて行く必要があります。とはいえ、私は今後の助産に関する政策を考えて行く上で、有効性の高い視角であると思っています。私の提示したパースペクティヴを肯定的にでも批判的にでもよいので、真剣に検討する方々が現れることを期待したいと思います。
なお、本文ではもう少しいろいろなことを書いていますので、ご関心のある方は拙稿をご笑覧いただけると幸いです。
2010年10月4日月曜日
『一橋大学案内2011』におけるゼミ紹介
一橋大学がPR用に作成した『一橋大学案内2011』の見本が教員に配布されました。
『一橋大学案内2011』製作の過程で、学部ゼミ紹介部分で私が担当した部分(p.25)がありますので転載します。
今から振り返ってみれば、大学やゼミについての一般的な性格付けをしているところについて、「私は~~思う」と謙虚な立場で書いておけばよかったと反省しています。
------------------------
社会学部 猪飼ゼミ
大学とは何でしょうか。皆さんだけでなく大学生の間でも一般的な理解は、第1に有利な就職を実現するための梯子のようなもの、第2により専門的な知識を学ぶところ、第3に資格を取るところ、といったところでしょう。大学にそのような役割があることはたしかですが、実は、大学の最も重要な意味は、知識を生産するところであるということです。実際、大学の独自性は、自ら知識を生産している人びとが学生を教えているという点にあるのです。
本学を含め多くの大学においてゼミナールの制度があるのは、知識を生み出すということがいかなることであるかを学ぶためなのです。知識を生産する現場の思考や生産の過程は、できあがった講義内容にできるようなものではありません。そこで、少人数の学生と教員との間の対話を通じて、それを学んでゆく必要があります。これがゼミナールです。えっ?勉強することと知識を生み出すこととの間にそんなに違いがあるのかですって?それを理解するには、大学のゼミナールを経験してもらうのが一番ですが、前触れ的に言っておけば、両者の間には、音楽を聴くことと作曲することくらいの違いがあるのです。
猪飼ゼミは、社会政策のゼミです。社会政策というのは、人びとの生活を支援する政策体系のことで、従来、雇用・医療・年金・介護・生活保護などの制度整備を軸に、主に戦後大きく発達してきました。「社会保障」とか「福祉国家」といった言葉は皆さんも聞いたことがあると思いますが、これらはいずれも社会政策の展開のなかで発達をみた生活支援のあり方を指しています。
では、社会政策において知識を生み出すということはどういうことでしょうか。1つのやり方は、現実の生活を深く理解することです。人びとは他人に言われなくとも一生懸命自分の生活を成り立たせようと努力しています。それが個人的にあるいは集合的にどのような結果を生んでいるのか、これを突き詰めてゆくと従来誰も知らない知識に到達する可能性があります。もう1つのやり方は、現実の深い理解を前提として、人びとが生活上抱える問題を解決する方法を考えることです。これも突き詰めてゆくと、真に新しい問題解決の方法に到達する可能性があります。
猪飼ゼミでは、生活やその支援についてとことん考え、知識を生み出してみたいと思う皆さんを歓迎します。
---------------
『一橋大学案内2011』
http://www.hit-u.ac.jp/admission/digital_p/pamphlet.html
『一橋大学案内2011』製作の過程で、学部ゼミ紹介部分で私が担当した部分(p.25)がありますので転載します。
今から振り返ってみれば、大学やゼミについての一般的な性格付けをしているところについて、「私は~~思う」と謙虚な立場で書いておけばよかったと反省しています。
------------------------
社会学部 猪飼ゼミ
大学とは何でしょうか。皆さんだけでなく大学生の間でも一般的な理解は、第1に有利な就職を実現するための梯子のようなもの、第2により専門的な知識を学ぶところ、第3に資格を取るところ、といったところでしょう。大学にそのような役割があることはたしかですが、実は、大学の最も重要な意味は、知識を生産するところであるということです。実際、大学の独自性は、自ら知識を生産している人びとが学生を教えているという点にあるのです。
本学を含め多くの大学においてゼミナールの制度があるのは、知識を生み出すということがいかなることであるかを学ぶためなのです。知識を生産する現場の思考や生産の過程は、できあがった講義内容にできるようなものではありません。そこで、少人数の学生と教員との間の対話を通じて、それを学んでゆく必要があります。これがゼミナールです。えっ?勉強することと知識を生み出すこととの間にそんなに違いがあるのかですって?それを理解するには、大学のゼミナールを経験してもらうのが一番ですが、前触れ的に言っておけば、両者の間には、音楽を聴くことと作曲することくらいの違いがあるのです。
猪飼ゼミは、社会政策のゼミです。社会政策というのは、人びとの生活を支援する政策体系のことで、従来、雇用・医療・年金・介護・生活保護などの制度整備を軸に、主に戦後大きく発達してきました。「社会保障」とか「福祉国家」といった言葉は皆さんも聞いたことがあると思いますが、これらはいずれも社会政策の展開のなかで発達をみた生活支援のあり方を指しています。
では、社会政策において知識を生み出すということはどういうことでしょうか。1つのやり方は、現実の生活を深く理解することです。人びとは他人に言われなくとも一生懸命自分の生活を成り立たせようと努力しています。それが個人的にあるいは集合的にどのような結果を生んでいるのか、これを突き詰めてゆくと従来誰も知らない知識に到達する可能性があります。もう1つのやり方は、現実の深い理解を前提として、人びとが生活上抱える問題を解決する方法を考えることです。これも突き詰めてゆくと、真に新しい問題解決の方法に到達する可能性があります。
猪飼ゼミでは、生活やその支援についてとことん考え、知識を生み出してみたいと思う皆さんを歓迎します。
---------------
『一橋大学案内2011』
http://www.hit-u.ac.jp/admission/digital_p/pamphlet.html
登録:
投稿 (Atom)