2011年3月29日火曜日

自粛と反自粛のあいだ

効率良く情報を収集したいというまったく個人的な理由からですが、去る2月にツイッターを始めました。結果的に、この度の震災に際して人びとが自粛派と反自粛派に分かれてツイッター上で誹謗しあう現場に立ち会うことになりました。ここ数日は、原発からの放射性物質の東京への飛来が日々続くなかで、人びと(主に関東圏の話かと思いますが)の自粛か反自粛かという非当事者的感覚は薄れ、論争そのものは下火になってきているように思われます。

落ち着いたところで、この問題を少し整理しておきたいと思います。花見のシーズンが東京でも始まったとのことで、今後にも少しは生かせるかもしれません。

ポイントは自粛派と反自粛派にそれぞれどのような人が含まれているかだと思います(以下にすべての自粛/反自粛の動機が網羅されていないかもしれませんが、本投稿の趣旨からいってそれは問題ではありません)。

まず、自粛派はなぜ消費や生活の楽しみを自粛するのでしょうか。少なくとも次の3種の類型があるでしょう。

1)被災された方々への同情や死者を悼む気持ちから自粛する人びと
2)自粛という行為を通じて、被災者にその気持ちを伝え、可能であれば被災者を慰めたり、励ましたりしたいと考える人びと
3)自粛しないことで他人から批判されることを恐れる人びと

いうまでもなく、1と2の類型は被災者への深い思いを究極の動機としてもっている人びとであり、3は自己防衛的動機に基づいて行動する人びとです。

では、今度は反自粛派はなぜ自粛をしないのでしょうか。

1)被災当事者でない人間が、そもそも被災者に共感するといっても、その苦しみを分かち合うことには大きな限界があり、したがって被災者に同情を示すことは、偽善的行為に過ぎないという考え方に立つ人びと。この考え方でゆくと、被災者を真に慰める手段をもたない状況では、人はそのことを認めつつ、支援の機会を待つべきであり、それこそが被災者に対する誠実な態度であるということになります。
2)自粛をしない方が日本経済の活性化に繋がり、結果として被災地の人びとを含む社会全体の利益に貢献すると考える人びと。
3)被災者に無関心な享楽主義者。

少し補足しておきますと、2の考えに基づく場合、当人は、道徳的には享楽主義者であってもかまわないので、2の考えそのものは享楽主義のエクスキューズとなっているだけの可能性もあります。その意味では、2と3の間にはある程度重複があります。

さて、以上はごく粗っぽい自粛派/反自粛派の類型提示ですが、これだけでも重要なことが分かります。すなわち、自粛派と反自粛派の感情的な対立は、自粛派にも反自粛派にも、それぞれ被災者に対して深い同情心をもつ人びとと無関心・無思慮な人びとの両方が含まれており、まさにそこに感情的対立の根があるということです。というのも、この構図は、それぞれの陣営の被災者に同情する人びとが、反対陣営の無関心・無思慮に怒りを覚えるというものだからです(なお、被災者に無関心な人びとは怒りを覚えませんので論争の当事者ではありません)。

被災者に同情する自粛派からみれば、反自粛派は、被災者に共感する力に欠ける享楽主義者であり、また、これ見よがしに生活を楽しんでみせることで、被災者の心を踏みにじる不謹慎者と映ることになります。逆に、被災者に同情する反自粛派からみれば、自粛派は、苦しみを分かち合うことなどできないことを知っていて形だけ謹慎している許し難い偽善者ということになります。

感情的に対立する人びとは、自分たちこそが被災者に深い同情心を有していると思っているために、反対者に強い怒りを覚えわけです。したがって、これらの人びとの本当の意図は、その同情心を自粛あるいは自粛しないという行為を通じて表現することだといえます。

しかし、上の検討からわかるように、自粛的行為あるいは反自粛的行為によって、その同情心を適切に表示することはできません。なぜなら、それぞれの行為からは、同情心をもってそうしているのか、無関心・無思慮であるためにそうしているか区別がつかないからです。

これは被災者からみても同様でしょう。被災者によっては、自粛派に偽善をみる可能性があります(「所詮私たちの苦しみはあなたたちにはわからない」というのがそれ)し、反自粛派に対して自分たちの苦しみをよそに、人生を楽しむ許せない人間にみえる可能性もあります。

以上からさしあたり結論できることは、自粛か反自粛かという対立はそれ自体、論争の目的からいって無効だということです。

実際、たとえば反自粛の代表的論者となっている佐々木俊尚さんのブログやツイッターを拝見していても、被災者を支援したいという強い意志と敢えて反自粛をするという2つのことが同時に宣言されています。このことは、反自粛それ自体が、被災者への同情の表明としては適切でないということを、直感的に認めているためだと思われます。そして、なぜ自粛しないのかについての言葉こそが、彼の反自粛的行為の意味を確定させているものなのです。

結局のところ、自粛するにせよ、自粛を自粛するにせよ、それがどのような思いの上に乗っているのかを説明する言葉の方が重要だということになるのではないでしょうか。

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