2012年11月1日木曜日

地域包括ケアでなければならない理由について

ここしばらくブログの更新をサボっている間に、私はすっかり「地域包括ケア」の専門家の一人と目されるようになってしまい、各所に呼ばれて話をさせられるようになってしまいました。 

別のところでも書いていることですが、専門家と学者の間には大変深い溝があります。専門家はある分野に関する知識が深いことを本質としています。であるがゆえに、時にはアドバイスを求められることになります。これに対し、学者というのは、真実(それがあるかないかはともかく)を尋ねる、という基本的な態度をもつ人間のことを言います。この場合、基本的ポジションは「私は真実を知らない」になります。「知らない」からこそ「知る」ための努力をすることに人生を使うわけです。 

ところが、実際の学術研究のあり様をみますと、ある分野でもっとも深い知識を有している専門家が、その分野の真理を追求している学者である、ということはよくあることです。この場合、自身としては真実をよく知らないと思っている人間に、アドバイスが求められるという状況が発生し、これは学者にとっては大変な葛藤状況になります。実は、まさにこのような状況が、私にも降り掛かるようになってしまった、というのが、冒頭で述べた状況です。

 私個人としては、基本的アイデンティティは学者であって、専門家であることについては何の魅力も感じていません。ただ、私が考えてきたこと、暫定的ではあれ見出してきた知見を、「知りたい」という人があることに対しては、何らかの応答の義務があるとも感じるようになりました。 

ただし、講演などでは厳密な話はできません。そういう話になったとたんに確実にみんなあくびをし始めます。私は学者なのだからそれで構わないのではないか、と思ったりもしますが、結局のところ何も伝わらなければ、求められている義務を果たしたことにもならないわけですから、「論証が抜けていますが…」などと言い訳しながら、結果だけを話すという歯切れの悪い話し方をすることになります。

まあ、こんなことで葛藤しながらここのところ過ごしてきました。そこでのひとまずの結論としては、学者と専門家を両立させる唯一の方法は、結局のところ、わかりやすく丁寧な論文を書くということ以外にないということです。ただ、それは困難を別の困難に置き換えるだけというところもあります。

そうこうしているうちに、小文を書く機会を持つことになりました。下のリンクは『医療白書』の2012年度版のために書いた文章の未定稿です。どうやら本文は、『医療白書』の第1章に掲載される予定のようですが、おそらく他の章や冒頭の対談とは相当異質な文章になってしまっているようです。このように本の文脈を無視した文章、いつもどおり読みにくい文体、ということで、上の課題を克服する日が実に遠いということを痛感することになってしまいました。私の葛藤の日々はいつ終わるのでしょうか。

それでも、あえて本文を読んでやろうという方には、文章に次の諸点への言及があるということを踏まえた上で読んで頂けば、多少なりとも誤解なくお読みいただけるのではないかと思っています。

1)厚労省が推進する「地域包括ケア」に地域包括ケアとしての一般性を認めていない
2)地域包括ケアが高齢社会を乗り切るためのケアであるということを認めていない
3)地域包括ケアによってケアシステムのコストが削減できることを認めていない
4)地域包括ケアによってケアが良くなるということを認めていない
5)にもかかわらず、長期的な趨勢としてケアが地域包括ケア化することを認めている

猪飼周平「地域包括ケアであるべき根拠とは何か」(未定稿)


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