ただ、転んでもタダで起きてはつまらないということで、集会にあたって「タイガーマスクでは終わらせない」と題して、地域包括ケアに関心をもって集まってこられた方々に社会的養護に関心を喚起することを目的としたパンフレットを作成して配布することにしました。
以下は、パンフレットに私が書いた小文です。
えにしの会についてはこちら
資料付きパンフレット(当日配布)はこちら
厚生労働省「社会的養護の課題と将来像の実現に向けて」はこちら
--------------------------------
タイガーマスクでは終わらせない: 地域包括ケアと一緒に考える社会的養護
1.美談としてのタイガーマスク現象
みなさんは、「タイガーマスク現象」をご記憶でしょうか。2010年の年末に「伊達直人」を名乗る匿名の人物が、群馬県中央児童相談所にランドセルを寄付するということがあり、それがメディアに取りあげられたことで、その後次々に児童相談所や児童福祉施設に匿名での寄付が行われたあの現象です。2011年3月に東日本大震災が発災したことで、ブームは消し飛んでしまったのですが、テレビその他の媒体で、ずいぶん「美談」として流布しましたので、覚えていらっしゃる方も多いのではないかと思います。
それにしてもなぜこれが「美談」として語られたのでしょうか。そもそも、ある事柄が美談となるとは、それが道徳的にみて純粋に美しい話、心温まる話であることを意味しています。たとえば、構造上の欠陥のために危険な交差点があったとして、車に轢かれそうになっていた子どもを身を挺して救った人があったとしましょう。このような話は決して美談になりません。むしろ、そのような危険な交差点を放置していた行政の無為が告発されることになります。つまり「伊達直人」が美談として語られたということは、社会的養護を必要とする子どもの置かれている境遇について、美談として語る社会の側には責任がないという認識が暗黙のうちに前提とされていたということを意味します。
とするならば、仮に施設の子どもたちがランドセルを買うことさえもできないとしても、そのことについて、社会の側には責任がない、という前提的認識がこの「伊達直人」の行為の美談化の背景には存在しているということになります。実際には、施設の子どもたちがランドセルくらいは皆もっていることを考えれば、現実の施設における養育水準よりもさらに低い水準であってもやむを得ないという考えが、私たちの社会で常識化しているということが、タイガーマスク現象によって示されたとさえいうことができます。
2.取り残されてきた社会的養護
日本の社会的養護の特徴について、ここでは3点挙げておきたいと思います。
①そもそも社会的養護の必要を認められる子どもが諸外国に比して少ない。
津崎哲雄『この国の子どもたち 要保護児童社会的養護の日本的構築』日本加除出版2009年, p. 181
②養護を受ける子どものうち里親への委託(「家庭的養護」といいます)が少なく、大部分は施設で養育される。
③児童福祉施設出身者の大学進学率は12.3%(全高卒者53.2%)と低い。
これらは何を意味しているのでしょうか。
まず①は、日本の社会的養護には、そもそも子どもの保護機能が弱いということを示しています。この背景には、「実親の子どもの養育を放棄すること自体がけしからん」とか「家族の中のことに外部から介入すべきでない」といった観念が日本社会に強く存在することが考えられますが、いずれにせよ、子ども自身の利益が相対的に軽視されてきたことがわかると思います。
②も同様です。子どもが家庭的な環境の中で育つことが基本的には望ましいということがはっきりしたのは、決して最近のことではありません。にもかかわらず、里親委託率は戦後一時的に高まった時代を除けば、長い間10%前後という極端に低い状態で推移していました。つまり、日本では子どもに家庭的な環境を提供するという努力が永らく欠けてきたのです。このことも、戦後日本の社会的養護が、子どもの利益を守ることを第一義的な目的としていなかったことを示しています。
そして③は、そもそも社会的養護が、生活保護制度などと同様に、最低限度の生活さえ保障すればそれでよい、という「ナショナルミニマム」原則に基づいて運用されてきたことを示しています。子どもは、自分を虐待する親を、養育することができない親を選んで生まれてきたのではありません。その意味では子どもには最低限度の生活しか与えられないという一種の「罰」を与えられる理由はないはずです。にもかかわらず、子どもに対するこのような処遇のあり方は永年放置されてきました。
「タイガーマスク現象」が美談となったのは、日本のほとんどの人びとが、永年社会的養護を必要とせざるを得なかった子どもの置かれてきた境遇に、そもそも関心を持つことなく、また関心をもったとしても、それを「親の義務」とか「ナショナルミニマム」といった不適切な常識で裁くということに、何の痛みも感じなかったからに他なりません。
永年の社会的養護のあり方については、「児童相談所が悪い」「施設の職員の意識の低さが悪い」とかさまざまな批判がなされるようになってきましたが、私は、社会的養護関係者を責めても仕方がないように思います。というのも、社会的養護関係者が他の社会サービスの領域で活動する人びとに比べて道徳的に劣悪だと信じる理由がないからです。そうではなく、このような社会的養護のあり方をもたらした最大の理由は、日本社会に生きる人びとが、社会的養護を受ける子どもたちに関心を払ってこなかったことそれ自体にあると思います。
3.地域包括ケアと一緒に考えてください
そうはいっても、社会的養護も少しずつですが状況は改善されてきています。現在、①里親への委託を積極的に推進する、②児童養護施設などの施設ケアをできる限り家庭的環境に近い形で運用する、という方向に向かって改革が進み始めています(後掲資料「社会的養護の課題と将来像の実現に向けて」)。また、別添の資料「日本の社会的養護と特別養子縁組制度への提言」(日本財団、2015年)にみられるように、特別養子縁組制度を活用して特に愛着形成の必要な乳児に円滑に家庭的環境を提供しようとする運動などが始まっています。
ここで、みなさんに是非お願いしたいことは、本年のえにしの会のテーマである地域包括ケアと一緒に社会的養護について考えていただきたいということです。すると察しの良い方は、地域包括ケアについて考えることと、社会的養護について考えることは同じことだ、ということがたちどころにおわかりになるのではないかと思います。下の図は、厚生労働省が描く社会的養護の「理想」ですが、地域包括ケアの概念図とそっくりだと思いませんか。
たとえば、家庭的養護を子どもに提供することは、高齢者ケアの在宅化に対応しています。おばあちゃんを病院から退院させて自宅に帰すだけではケアになりません。自宅でおばあちゃんがくらしてゆけるように、本人を含め、家族、地域社会、行政が連携しあうとともに、そこに適切かつ充分な支援が行き届かなければなりません。これと同じように、子どもも里親に委託したり養子縁組したりすれば終わりではありません。子どもに家庭的養護を提供することが意味をもつためにも、子どもを含め、養親家族、実親、地域社会、行政の協働が必要で、加えてそれぞれに対する適切な支援が届かなければならないのです。
政策としての地域包括ケア政策には、わかりにくい部分もいろいろとありますが、それでも社会的養護にくらべれば、驚くほど順調に政策が進展しているといえるでしょう。私の理解では、その順調さの最大の理由は、今日高齢者の生活のあり方に、社会が大きな関心を払っているからに他なりません。そして高齢者の生活に向けられた関心から、それが悲惨なものであることは許さない、という社会としての共通認識が生まれ、それがケアの水準を支えているのです。
「タイガーマスク現象」が図らずも示したのは、社会的養護が子どもに対して適切なケアを提供できる、その前提となる子どもの養育環境についての社会的関心が私たちの社会に欠けていたということであり、またそのような社会的関心の大切さでした。でも、「伊達直人」たちはもう自分の仕事を終えて帰って行きました。
タイガーマスクでは終わらせない。次は私たちの番です。少なくともえにしの会に集まってこられている方々にとっては難しいことではないと思います。高齢者の暮らしを見つめるのと同じ眼差しを子どもにも向ければよいだけなのですから。
0 件のコメント:
コメントを投稿