2010年8月12日木曜日

川上武先生のこと

近代日本医療史に最も貢献した人物を1人あげるならば、川上武だと思います。特に『現代日本医療史』(勁草書房、1965年)において、彼は近代日本医療史の礎を1人で築きあげました。

もっとも、この本は、若くて論理的思考の強い社会科学系の大学院生などには、総花的で、論理性に欠ける本のように思われるかもしれません。実際、私も、大学院時代はじめてこの本に接したとき、そのように思ったものでした。

私が川上が凄いと思うようになったのは、彼がみた史料を私自身で再確認する作業を始めてからでした。作業をはじめてみると、すぐに、川上が1人の人間が発掘できるとは思えない程の史料収集を行っていたことがわかりました。しかもそれは診療傍ら行われたのです。そこには日本の医療に対する情熱の大きさが感じられました。私は『病院の世紀の理論』で川上の「医療の社会化」論的歴史観を批判する立場に立ちましたが、川上武の仕事がなければ私の研究も全く不可能であることもたしかなことでした。私にとっては、川上の仕事をきちんと超えてみせることが、彼に敬意を表すことではないかと思っていました。

実は、このようなことを書いたのは、去る7月31日のSPSNという社会学系の社会政策学の研究会でお目にかかった、川上をよく知る坂口志郎さんに、「川上先生は生前自分の歴史観を超える歴史が現れることを待ち望んでおられた」ということを伺ったからです。このお話を伺いながら私は、川上武『戦後日本医療史の証言』(勁草書房、1998年)の次のくだりを思い出していました。

「救貧層に対する医療としても、きちっと制度化しないで、恤救規則とか恩賜財団という名の済生会とかいうものをつくり、慈恵を強調する。そういうことで「低医療費政策」という言葉をつかったのです。ただ、これはいまになって考えると、私的医療機関誘導型医療システムと言ったほうがよかったかなという気がします。」(p. 12)

私はこれを読んだときから、川上は最終的に私が得た知見にほど近い地点に立つに至り、おそらくは川上自身「医療の社会化」論は克服される必要があると考えるようになったのではないかと密かに思っていました。私個人としては、川上に直接薫陶を受ける機会はありませんでしたが、この度の坂口さんの証言で、私の認識は裏書きされたのではないかと思います。

かくして、従来「医療の社会化」論に与してきた方々にも、きちんと読んで頂ければ私の企図を理解して頂けるということを知ることができました。今後の建設的な議論に生かしてゆきたいと考えています。

最後に、昨年7月に亡くなられた川上武先生のご冥福をお祈り申し上げます。

1 件のコメント:

  1. 猪飼さん、ありがとうございます。川上武先生にとって何よりの手向けの言葉となると思います。医学史研究会/川上武編『医療社会化の道標ー25人の証言』(勁草書房、1969)なんて、これまた労作を残されていて、これを読むと本当に医療政策を語っていたのは「医療の社会化」運動に携わっていた人びとだけのような圧倒される感覚を覚えますが、そうでないことは発足当時の厚労省の側の文章を丹念に読んでいくだけで明らかになると思います。
    7月2日が命日になります。

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