2010年9月6日月曜日

ヒューマンでない政策

ある学生政策コンテストの予選会の審査委員を務めてきました。
4チームのプレゼンを受けて、決勝に進む1チームを選抜するという役目でした。

結果的には妥当な1チームを選ぶことに成功したとは思っているのですが、同時に心残りなこともありました。それが、1つのチームが提出したヒューマンでない政策を採択しなかったことについてです。内容としては、医療・介護難民増大が予想されるという問題状況に対して、解決策として高齢者を政策的にフィリピンに送り込むというものでした。これに対して、私は講評に際して、政策がヒューマンでないために実施できないことを採択されなかった理由として挙げたのですが、この説明はたしかに不十分だったと思います。実際、この点を除けば4チームの中で、このチームの提案は最もよく練られたもので、プレゼンの完成度、学生らしい独創性ともに申し分ありませんでした。

説明が不十分だと思われるのは、このチームが、明らかに政策がヒューマンでないことを分かった上で、敢えて提案してきていたからです。つまり、彼らは政策がヒューマンである必要があるという常識に挑戦しようとしていたわけで、審査委員としては、単にヒューマンでないことがいけないというだけでなく、ヒューマンでないことがなぜいけないのかを説明しなければならなかったわけです。その意味では、私は審査委員であることを審査されていたともいえます。残念なことに、私は、自己採点の限りその審査には合格しなかったのではないかと思います。

さて、ヒューマンでない政策の何が問題なのでしょうか。永井均と小泉義之の「なぜ人を殺してはいけないのか」論争を思い出して頂くとわかりますが、「殺してはいけない」ということを倫理学的に導出することはできない、さらにいえば場合によっては積極的に殺すべきだという議論もあり得る、と主張した永井の議論の方にどう考えても分がありました(永井均・小泉義之『なぜ人を殺してはいけないのか?』河出書房新社1998年)。これは、ヒューマンでないという理由による批判が、究極的には倫理学的基礎を有していないということを示唆しています。それにもかかわらず、政策として採択できないとすれば、そこにどのような正当な基準があり得るでしょうか。

この予選会では、厚生労働省の官僚2人が私とともに審査委員となっていたのですが、彼らが、上の提案を、実施可能でないと判断したことは大変興味深いと思います。彼らの直感では、同提案は、一見よく練られているようにみえるが、実施する段になると幾多の問題が出てきて実施困難に陥るだろうと感ぜられたということです。

では、なぜヒューマンでない政策は実施困難になってしまうのでしょうか。これは、先述の殺人の問題で考えてみると問いの意味をよく理解することができるでしょう。というのも、ヒューマンでない政策の実施可能性問題は、倫理学的には殺人を悪と断ずる究極的な根拠がないにもかかわらず、平時の現実社会において殺人を犯す人がほとんどいないのはなぜか、という問いとパラレルだからです。この殺人に関する事実は、おそらくヒューマニズムが倫理学的基礎づけを究極的には必要としない価値であるということを意味しているのだと思います。このため、ヒューマンでない政策を実施しようとすると、それは、それに関わる人びとの多くに葛藤や抵抗を生み出し、その傾向が、他の審査員が直感したように、行く先々で幾多の問題に直面するという形で、実施可能性を低下させるということになるのでしょう。

もっとも、このヒューマニズムというものは、私たちの常識の中に、具体的な姿がよくわからないように溶け込んでいるものです。したがって、多くの場合、ヒューマンな政策とそれに反する政策との間の線引きは決して明確ではなく、そこに価値をめぐる争いの余地が生じます。いいかえると、政策を実施可能とするために必要なヒューマニズムとは、真にヒューマンであることではなく、ヒューマンであると人びとを納得させるなにかのことであるといえます。

今次の予選会の事例でいえば、政策の実施可能性という観点からみるかぎり(ひとまず、政策がそもそもヒューマニズムを含む社会的理想を実現するためにあるという前提に立たないで)、高齢者をフィリピンに送り込むという政策は、反ヒューマニズムをあからさまに主張していることに1つの問題があるといえます。いいかえると、彼らの提案の中に、実はこの政策こそがヒューマニズムを体現していると高齢者、その家族、フィリピン社会を説得する論理が提示されているべきだったのです。そして、この説得力の壁をどのように越え得ているかが、同提案を評価する上で採用されるべき判断基準だったのです。

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