2011年2月21日月曜日

象牙の塔

大学人は、しばしば「象牙の塔」の住人と言われてきました。その際、ネガティヴな意味合いが込められているのが普通で、「あんたら象牙の塔の連中は・・・」といわれると、私などは恐縮する他にほかすることがありません。

ところで、ふと疑問が沸きました。私どもの住処とされる「象牙の塔」ivory towerとはどこにあるのでしょうか。

もともとユダヤ教/キリスト教的伝統において「象牙の塔」は高貴な純粋さを表すものだったものが、俗世から離れて芸術・学術に引き籠もることを指すようになった。そしてこれが、ネガティヴな意味合いで使われるようになったのは、1910年代以降のことのようです(英語版wikiに詳しい説明がありました)。

他方、日本に「象牙の塔」という言葉が紹介されたのは、厨川白村『現代文学十講』(1912年)が最初だとされているようです。

ロマン派文学の一面には、芸術至上主義とも云うべき傾向があつた。即ちすべての芸術は芸術それ自らの為に独立に存在するもので、決して他の問題と関係しない。世知辛い苦しい現在の生活に対して、全く超然高踏の態度を取るべきものだと唱へた。醜穢悲惨の此俗世をよそにして別に清く高くまた楽しき「芸術の宮」-詩人テニソンの歌つたやうなthe Palace of Art或はSainte-Beuveがヴィニーを評した時に云つた「象牙の塔」tour D'ivoireの中に、独り立籠らうといふ所謂「芸術の為の芸術」art for art's sakeが其主張の一面であつた。然るに今や時勢は急変して物質文明の盛な生存競争の烈しい世の中になつて、人の心には一時一刻と雖も実人生を離れて悠遊するだけの余裕がなくなつた。人々は現実生活の圧迫を一層痛ましく感ずるに至つた。人生当面の問題が行往座臥つねにその脳裏を往来して心を悩ましている。そこでついに文芸ばかりがいつ迄も呑気な事を云つているわけにも行かず、勢い現在生存の問題に密接な関係を持つ事になつた。眼前焦眉の急に迫つて人々を悩まし苦しめている社会上宗教上道徳上の問題が直に文芸上に取り扱はれる程までに、実生活と芸術とは接近した。(厨川白村『現代文学十講』1912, p. 261)

厨川の文章を見る限りは、「象牙の塔」に籠もることが次第に困難になってきていることは指摘されていますが、まだそれ自体がネガティヴな意味合いを有しているとは認識していないようです。

ちょっと調べてみただけですから、戯れのレベルにすぎません。結論を導くのはやめておきましょう。ただ、個人的には次のような感想をもちました。

それは、「象牙の塔」=大学がその高貴な側面ではなく「役に立たない」という側面から評価されることが一般化したのは、せいぜいここ1世紀程度のことにすぎないというものです。千年にもおよぶ大学の歴史からみれば、大学とプラグマティズムの結合はごく最近の現象にすぎません。大学がプラグマティックでなければならないという考えに理解を示しつつも、大学とは元来プラグマティズムとは異なるエネルギーの源泉を有してきたということを見落とさないようにしないと、産湯とともに赤子を流すことになってしまうかもしれません。

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