2011年3月7日月曜日

ノーマライゼーションとは何か

最近ではすっかり一般社会にも浸透した概念に「ノーマライゼーション」があります。文字通りの意味では、すべての人が、何らかの意味で社会的に「ノーマル」な生活を享受することができるべきであるという理念であり、障害者福祉領域では、中核概念であるとみなされています。今回は、この概念について少し考えてみたいと思います。

ノーマライゼーションには3人の唱道者がいるとされています。そのうち2人は北欧の人で、バンク-ミケルセン(デンマーク)とニィリエ(スウェーデン)です。そしてもう1人がアメリカ人で、ヴォルフェンスベルガーです。前2者と後者の間には、主張にかなり隔たりがあるということが知られています。実際、いろいろな文献をみますと、3者の議論を折衷しようとして苦労しているものが多いように思います。なぜ敢えて折衷しようとするのかといえば、それが矛盾のない統一的な指針でなければ、それによって現実社会における状況を評価できない、要するに教条的アプローチに使えないためです。

もっともこのような統一的な指針への欲求が現場から示されることは理解できます。問題は、日本の社会福祉の研究者もが、実践家と同じ目線でそのような概念的統一を望んできたことでしょう。私はこのような研究者の態度の結果として封じられてきた1つ問いがあると思います。それが、デンマーク由来のノーマライゼーション概念と、アメリカ由来のノーマライゼーション概念の間に大きな違いがあるのはなぜかという問いです。

バンク-ミケルセンは「ノーマリゼーションの原理はそれ自体は、障害者――ここでは精神遅滞者――が、他の市民と同じ権利と義務をもつべきだという考え以上のことをあらわしているのではない。」と述べています。有り体にいえば、バンク-ミケルセンは、健常者に認められている基本的人権が知的障害者に認められていないのはおかしい、と言っているだけです。ニィリエもおおまかにはこの線の主張をしているといえます。

これに対して、ヴォルフェンスベルガーは、アメリカ社会において障害者は逸脱の形態の1つであると言い直しました。ポイントはなぜ言い直したか、です。想像するに、アメリカ社会は、基本的人権の実現という「正義」に訴えても、障害者の生活の改善を果たすことができない社会であるという背景があったのでしょう。このため、ヴォルフェンスベルガーは、ノーマライゼーションがそのようなアメリカ社会においても実質的に実現されるために、逸脱論を基礎とするノーマライゼーション導入プログラムの開発へと向かった、このように考えられます。

これを敷衍すると、ノーマライゼーション概念は、それが各社会にどのようなものとして定着可能であるかについての条件によって決定的な影響を受けるということになります。この点からいえば、先駆者3人や国際会議で出された折衷案の観点から、日本の現実社会を評価するという、社会福祉に従事する研究者が採りがちであった教条的アプローチは、理念と現実の乖離を深める(実践家からみると使えない理念となる)結果をもたらすことになります。

思うに、日本の社会福祉研究者がなすべきは、ノーマライゼーションとは何かを問うことよりも、ひとまず日本におけるノーマライゼーションとは実態として何かを問うことでしょう。

日本社会がどのようなノーマライゼーション概念が現実社会においてどのように用いられているかを把握することを通じて、日本における同概念の受容可能性を分析することではないでしょうか。

私の院ゼミ生で、4月から東大医学系研究科博士課程に進学する千葉俊之さんが、このテーマに取り組んでいます(と私は思っています)。本人はまだ目標の3合目あたりをうろうろしていると言っていましたが、良い研究に発展させて頂ければと思います。

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