2011年3月2日水曜日

先行研究のレヴューについて

論文の中で一番大切な部分は序論だと思っています。序論は、単なる論文への導入ではありません。もちろん導入的な文章で始めることもありますが、序論は、論文において、大変重要な1つの役割を与えられています。それが、この論文で何を問うかを示すとともに、その問いを問うことがいかに重要であるかを説得的に説明する役割です。私は論文の優劣は基本的に序論で分かると思っています。実際、序論が良くないと思われた論文については、特にその領域の知識を必要としている場合を除いて、その時点で読む気がなくなります(自分のことは棚に上げた態度で恐縮ですが)。

今回は、この重要な序論を構成する要素から、先行研究のレヴューを取りあげて考えてみましょう。

先行研究のレヴューについては、比較的広まっている誤解があるように思います。もしかすると、私1人が誤解しているのかもしれません。少なくとも、私がそう思うくらいあちこちでみられるものなのです。以下では、私が「誤解」と思うレヴューの作法2つについて考えてみましょう。

1つの形態は「アリバイ型」とでもいうべきものです。当該論文テーマの先行者にあたるとおぼしき著書・論文について、「~と述べている」「~と主張している」と列挙するタイプのレヴューがそれです。このようなレヴューからは、筆者の「私はこんなに勉強している。だからこのテーマで論文をかくのにふさわしい人間であると認めて欲しい」という思いがひしひしと伝わってきます。

ただ、私は、筆者の「品質保証」は勉強量によって与えられるのではなく、勉強によってどのような問いに到達したのかによって与えられるのだと思います。なぜならば、研究の可能性を決定する最大の要素はリサーチクエスチョンであり、その質こそが研究者の「品質」の主要素だからです。したがって、長大なレヴューの後に、つまらない課題設定が行われたりすると、逆に、この人は何のために勉強したのだ、と筆者の「品質」に大いに疑問をもったりします。

もう1つの形態は「隙間探し型」です。いろいろレヴューしたあとで先行研究が手をつけていない「隙間」をみつけて「隙間が空いているので私が埋めます」と宣言するものです。筆者は研究を陣取り合戦のようなものだと考えているのでしょう。このタイプの序論では、レヴューはどこの「土地」がすでに占領されているかを示すために使われます。実際のところ、社会科学論文は常にsomething newが求められますので、従来の研究で分かっていることをなぞるだけでは成立しません。このため、研究者には「無主の土地」を探すようつねに圧力がかかっています。このためそれを見つけると、「あったあった」と言い立てたくなります。

とはいえ、このような「隙間探し型」のレヴューには決定的な欠陥があると思います。というのも、「隙間」「無主の土地」がなぜあるのかということについて、私の理解する限り深刻な誤解があるからです。そもそも社会科学者の営みというものは社会を解明するという点からいえば、ごくごくささやかなものにすぎず、社会現象のほとんどは研究対象にならないばかりか、そのような現象が存在することすら知られていないのが真実です。したがって、従来の研究の文脈にとらわれずに社会を観察できれば、ほとんどの社会現象は「無主の土地」に属していることがわかるでしょう。とすれば、社会科学者は、その「無主の土地」から解明する価値のある問いが抽出できるという論理を構成することに成功してはじめて、その未開拓の現象や方法を採用することを正当化することができるということになるはずです。

かくして、「隙間」「無主の土地」があることを指摘するだけでは、それを研究することの意義を主張したことにはなりません。それはあくまで研究テーマとなる必要条件を満たしているにすぎません。「隙間」「無主の土地」の存在を提示するだけでは、逆に「研究の価値がないからそのような研究はされなかったのではないか」と反撃される可能性があるのです。

では、先行研究のレヴューは何のために行われるべきか。結局のところ、序論の果たすべき役割に貢献するために行われるべき、すなわち論文の課題が問うに値する問いであることを保証する機能を発揮するように提示されるべきであるということになりましょう。

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