2010年5月3日月曜日

恐竜の内輪差と社会科学

私はヴォイニッチの科学書を通勤時に聴いている者です。
http://science-podcast.jp/voynich/index.htm

2009年最終回の最後に紹介された「恐竜の内輪差」の研究に大変感銘を受けました。
というのも、そこには社会科学研究のある種の本質が縮図的に示されていたように思われたからです。

恐竜の足跡をみると、カーブを切るとき後足が前足よりも内側を通る(自動車の内輪差に相当)のだそうです。私たちがこれをみても「そういうこともあるだろうな」くらいにしか思わないことはもちろんのこと、おそらく恐竜の研究者たちにとっても状況は同じだったのでしょう。このとき、恐竜の内輪差という事実は、説明されるべき事柄とは考えられない事実として、その事実自体は知られていたとしても自明性の中に埋没した状態にあったことになります。

ところが、そもそも自動車がなぜ内輪差を発生させるかというと、前輪操舵(前輪で舵を切る)だからなのです。荷物を運ぶ台車などのように後輪操舵の場合、内輪差ではなく外輪差(後輪が前輪よりも外側を通る)が発生します。つまり、恐竜の内輪差は、恐竜が前足で舵を切っていたことを示しているのです。

さらに、現在の象の足跡をみると、象の足跡は外輪差を発生させているのだそうです。これは、象が後足で舵を切っているということを意味します。そして、このことは同時に、4本足の動物にとって前足操舵は決して自明ではなく、説明が必要な事柄だということを意味しています。

そして、恐竜と象の歩き方(曲がり方)の違いは、重心の位置の違いから来ているという仮説が提示されます。すなわち、頭が重い象の場合、方向転換をするときお尻を先に回した方が楽なのに対し、恐竜のように一般にお尻の方が思い動物の場合、前足で方向転換をした方が楽だというわけです。

この研究がどのような学術的価値を有しているかについて、私に評価する力がないことは言うまでもありませんが、ここには私が従事する社会科学研究のエッセンスが縮図的に示されていると感じました。

とりわけ、1)内輪差は前輪操舵から生ずる、2)象の歩き方は外輪差を発生させるという2つの知識と、3)恐竜の足跡にみられる内輪差という観察とを結びつけることによって、恐竜の内輪差現象を自明性から救いだし、説明が必要な事柄であることを説得的に示したところが重要です。

社会科学においても、自然科学同様、現象の理解を深めてゆくためには自明性のヴェールを一枚一枚剥ぎ取ってゆくことが必要になります。その意味において、本研究は自然科学・社会科学共通の王道を行くものといえます。ヴォイニッチの科学書のナビゲーターはこの点に共鳴したのでしょう。2009年の最後を飾るエピソードとして本研究を紹介しました。

一方、職業社会科学者の眼からみると、関心があるのは、どのようなプロセスで自明性が崩されたかです。よく考えてみると、1)、2)、3)の知識を同時に持つということは普通のことではないと思われます。このことは、自明性のヴェールを剥ぎ取るということが単なる「発想」とか「着眼」とかによって成されたのではないということを示唆しています。

想像ですが、研究者は、まず、恐竜の足跡から恐竜の歩き方に関心をもった。そしてこれを理解するために、自動車や動物などさまざまな移動体の移動のメカニズムを検討し、事例を積み上げた。そしてその過程で醸成された研究者の観察眼が、3)という現象の自明性を突き崩した。こういうプロセスが思い浮かびます。私の想像が正しければ、ここで起きていることは、普通でない知識の結びつきが、自然な現象理解のプロセスの延長に実現しているということです。

研究者の明晰さが研究の質に影響することは事実ですが、私の認識では、知識の積み上げの量・質の方がずっと重要です。人間の頭脳の働きは、どんなに頭がよくても所詮人間程度のものにすぎません。自然現象や社会現象が、人間の理解力の身の丈にあったものであるという保証が全くないとすれば、私たちが現象をより理解するためには、むき出しの頭脳の能力に依存する度合いの低い戦略をいかに構築するかが鍵となるはずです。いいかえると、どのように発想・着眼のまえに知識を積み上げてゆくか、ここに科学研究の本質があるはずなのです。恐竜の内輪差の研究は、それ自体大きな研究とはいえないかもしれませんが、地道かつ的確な知識の積み上げが、実りをもたらした事例のようにみえます。

私の想像が正しければ、恐竜の内輪差の研究は、それが科学研究の王道を行くものであるというばかりでなく、そこへ至るプロセスそれ自体も王道をゆくものであるといえるのではないでしょうか。

典拠
石垣忍・松本幸英「モロッコ国上部ジュラ系より産出した竜脚類の方向転換した行跡に見られる「外輪差・内輪差」様の現象」福井県立恐竜博物館紀要 (8), 1-10, 2009

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