2010年8月5日木曜日

普遍の窓

私は2005年、2006年にイギリスで研究する機会がありましたが、その時思い知ったことがあります。それは、イギリス人は研究者であるかないかに関わらず、概して日本に関心が薄いということでした。実際、私は滞在中、日本についてあまりまともな質問を受けたことがありませんでした。「おまえは何人か」「日本人だ」「そうか、私の友人は今香港にいるぞ」といったやりとりを何度となく繰り返したように思います。私に日本のことを聞いてくるのは、もともと日本に関心のある人に限られていました。そして、アカデミックサークルの中の中心人物にそのような人はほとんどいませんでした。

このような状況において、日本社会の特徴や個性について説明して回ってもほとんどインパクトがありません。ところが、日本特殊性論こそ、日本の社会科学者が最も熱心にやってきたことでした。ということは、日本の社会科学者は、イギリスでインパクトをもつような知的成果自体を、あまりもっていないということになります。日本の社会科学の世界への発進力を高めるために、英語を鍛えようという論調がありますが、これは本末顚倒の議論にほかなりません。述べる内容こそが問題なのです。おそらくこの問題は、イギリスをどこの国に置き換えても同じでしょう。そして、日本の国際的な存在感が小さくなってゆくにつれ、この傾向は強まるでしょう。

この無関心の沼から脱出するには、何より、私たち自身が、日本特殊性論から脱することこそが重要なのだと思います。その際のポイントは、特殊性の反対、すなわち日本社会からみえる普遍について語ることだと思います。どんな社会でも個別にみれば特殊なのは当然です。特殊の窓から普遍をみることが大切なのだと思います。

私は『病院の世紀の理論』を、このことを念頭に置いて書きました。日本の医療システムを日本的医療という特殊として捉えるのではなく、所有原理型医療システムという類型の1例として把握しようとしました。そして、ここで私が、特に重要だと考えるのは、本書が、日本という特殊を知らなければ、20世紀の医療システムに関するある種の普遍的知識を手に入れることができなかったという意味において、日本が普遍の窓となったことの例証となっている点です(もちろん拙著の議論が正当であればの話ですが)。

普遍を考えることは、大それた野心ではないと思います。それは、社会科学という遺すべき財産に貢献する方法なのだと思います。

このことを思い出したのは、去る7月30日にソウル大学日本研究所と一橋大学の学術交流会に参加したからでした。韓国をはじめとしてアジア諸国の研究者は、日本に大きな関心を払って下さっています。大変有り難いことですが、私たち日本の社会科学者は、この事実から、日本特殊性論にもニーズがあるのだという誤ったシグナルを受け取るべきでないと思います。

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