2011年2月1日火曜日

大学教師か研究者か

修士論文と卒業論文の締め切りが過ぎてようやく一息つくところまできました。

振り返ってみて、いつものことながら論文の指導というのは難しいと感じています。特に、修士論文の指導の場合、私の所属する部局では、博士課程志望者が増大していることもあって、研究の将来性を含めてアドバイスすることが必要になります。

学生の草稿やメモをみて、それが「研究になる論文」(問いを解こうとすることでより多くのそしてより深い問いが生成するというサイクルに入る起点となる論文)へと向かっているのか「研究にならない論文」に向かっているのかを、場合によっては瞬時に判断しなければなりません。さらに「研究にならない論文」に向かっている場合、どのようにすれば「研究になる」ようにできるのかを、学生のこれまでの研究をできるだけ無駄にしないように示唆しなければなりません。

このような指導に必要な能力とは、端的に言って研究者が良い研究をするために必要な能力そのものであり、その意味で、論文指導とは研究者の力量が正面から問われる場面であるといってよいでしょう。また、将来性のない研究に取り組んでいる学生に対して「なかなか面白い研究だと思う」と言ってしまったが最後、学生の研究者としての将来が失われてしまうことにもなりかねません(学生が教師に高い信頼をおくほどこの危険は大きくなる)。ただ現実には、上のような理想的な指導はそうそうできるわけもなく、面談に来た学生が帰ると敗北感に苛まれることもしばしばです。

このように考えると、論文指導への関わり方として「論文を改善する方法を学生と一緒に考える」というお友達スタンスの方が、より現実的でかつ害がないといえるでしょう。ただ、私自身の大学院生時代を振り返ってみたとき、現在の研究がなぜダメなのかを説明してくれる恩師森建資の存在がなければ、何かと思い違いをしがちな私が、曲がりなりにではあれ研究者になることはなかった。実際のところ、周りが「お友達」だけで一人前の研究者になる人は絶無とはいえないまでも、相当に限られるでしょう。そう思うにつけ、やはり、上のような指導はあくまで理想であるとしても、それに近づく努力が必要で、そのためには研究者としての力量を磨く以外に近道はないのだと思うのです。

かくして、論文指導という観点から教育と研究の関係をみるかぎり、1つの結論に到達することができると思います。すなわち、大学教師である前に研究者でなければならない。

私が勤める大学は、日本でも有数の研究者養成機関です。とすれば、上のような見解は、そのような必ずしも高等教育に一般的でない環境に引きずられたものであるといえるでしょうか。研究者を養成するためには、教師が研究者として優れていなければならないとしても、多くの高等教育機関は、研究者を養成しているわけではないので、同じタイプの教師が必要とされるわけではないといえるでしょうか。この問いに対する答えは、高等教育とりわけ学部教育において研究・論文作成がいかなる重要性を有するかに関する評価に依存するでしょう。

現在大学教育というのは大変複雑な内容をもっていますので、一概にいえないかもしれませんが、思うに、社会科学分野の学生にとって最終的に自分の手の内に残る最も大切な財産は「社会科学すること」それ自体です。そして、「社会科学する」という思考習慣を会得するには卒業論文に熱心に取り組むことが最もよいプラクティスとなります。少なくとも「社会科学すること」以外のことを究極的に教えることができない私について考えるかぎり、学部レベルの教育を含めて、大学教師であるためにはまず研究者でなければならないという結論に到達せざるを得ないように思います。

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