2011年2月3日木曜日

修士論文廃止の意味するもの

先回の投稿の時期が、たまたま中教審答申「グローバル化社会の大学院教育」のニュースと重なって、当ブログをご覧になった方もあったようです。先回の投稿で、私は、修士論文の指導に必要な教員の条件について書いたのですが、答申では、なんとその修士論文の廃止の提案が含まれていました。

修士論文の意義について、せっかくですので、研究者を養成するという観点から少し考えてみたいと思います。

まず、研究者を養成するということからいえば、論文を書きながら自分の研究を進めてゆく人材を輩出できさえすればよいわけですから、どうしても修士論文を書かなければならないということはないと思います。最終的にどこかで、必要な能力を身に付けてもらえればよいということです。そのために必要な教師の資質についても修論の存否によって違いません。その意味では、修士論文の要否は、実のところ大きな論点ではないでしょう。私は、中教審の答申については、単なる是非論とは異なる観点からその意義について考えてみる必要があると思います。

まず、修士論文を廃止するということは、答申では、アメリカの大学院制度に近づけることを想定しています。米国大学院のPhDコースでは、博士論文提出前に論文提出義務はなく、学位論文を提出する権利を獲得するところまでは、何段階かの試験をパスする形を採っています。日本の博士課程の院生と違って、アメリカでは、大学院生レベルでジャーナルへ投稿するというのは一般的ではありませんので、つまるところ、アメリカの大学院生にとって博士論文が最初の本格的な論文になるということになりましょう。この場合、アカデミックキャリアは、博士論文→学術誌投稿(ポスドクとして)→一人前の研究者になります。これに対して、修士論文のある日本では、修士論文→学術誌投稿→博士論文→一人前の研究者ということになります。つまり、修士課程と博士課程という2階建ての構造のために、博士論文に要求される水準が、アメリカの博士論文よりも高めに設定されやすくなります。したがって、アメリカの博士号は、日本の修士号と博士号の中間地点で与えられる学位ということになり、それは一人前の研究者の証明ではなく、一人前の研究者への通過点ということになります。

このように考えると、実は、これまでぼんやりと不思議に思ってきた外国の研究者との間の認識の違いがすっきり説明できるように思います。社会科学系に限って申しますが、英米の学術誌に掲載されている投稿論文には、すでに一流とみなされている研究者が多数含まれています。これに対して、日本の学術誌は、投稿論文の著者が院生であることが多く、これとは別に、大学教員らは主に学術誌が別に用意している特集論文枠に寄稿することが一般化しています。この違いは、博士号に至るまでの道程の実質的な長さに由来していると考えれば首肯できます。英米では、学術誌への投稿論文掲載は、著書の一章を書くよりも遙かに高い評価を受けるのに対し、日本の大学研究者は、雑誌論文を書くよりも著書の章を書くことを重視する傾向にあります。この違いも同様に説明できます。さらに日本では、相対的にポスドクへの制度的手当が薄いことも、博士号取得要件の高さによってある程度説明できます。

つまるところ、修士論文を廃止するとは、単に大学院教育の手順を変えるということではなく、アカデミックキャリアの全面的な組み替え、答申流にいえば「グローバル化」であり、直截的にいえばアメリカ化をするということを意味しているといえるのではないでしょうか。

中央教育審議会(中教審)答申「グローバル化社会の大学院教育」(2011年1月31日)

0 件のコメント:

コメントを投稿