2011年5月30日月曜日

論文の文体の修得について

社会科学論文の書き方はどのようにして修得するのでしょうか。自然科学論文の場合、書き方にかなり明確なフォーマットがあります。論文のフォーマットが要求する要素を揃えることが最重要で、書き方それ自体に修得するという性格は弱いように思われます。これに対し、社会科学のある種の分野、たとえば社会学や社会政策学では、「語り口」=文体に高い重要性が与えられています。論文というのは元来「語り口」を楽しむためのものではありませんので、決まった手順で述べることができればその方が都合がよいに決まっています。にもかかわらず語るための文体が必要な場合があるのです。

これを突き詰めると、「いかなる場合に文体が必要となるか」という科学や言語の根本に関わる大問題に到着します。その中には、「物理学は数学で書かれるのか」といった問題も含まれるでしょう。もう1回研究人生があれば、取り組んでもよいかなという気もするテーマですが、この問題を考え続けていると、今回のブログのテーマに到着しませんので、ここでは経験的にそういうことがあるということを認めることで、この問題をスキップした地点から考えを進めたいと思います。

社会科学論文における説明は、日常言語で書かれますので、文体には文章の流れを作るという小説などとも共通する機能、「読ませる機能」とでもいうべきものがあります。ただ、論文の価値はここで決定するわけではありません。私が理解する限り、論文の価値に関わる論文の機能は、すぐに思いつくだけでも次の3つくらいはあります。以下日本語の論文を書く場合に限定して少し考えてみましょう。

第1に、読者の厳密な理解に寄与する機能です。私は、現在の社会科学のスタンダードからすると古風な文体で書いている(非定型的な文章を書いている)と周囲に評されることが多いのですが、それでも説明にあたって自分なりの決めごとをたくさんもっています。「は」「が」の使い分け方、段落の落とし方、節の分け方、カギ括弧の使い方、接続詞の使いどころ・・・などさまざまです。論文などでは特にこのルールを明示することはありませんが、一定のパターンでそれを使用することで、厳密に読もうとする読者にそれを可能にすることが目指されています。ポイントは、どのような文体を選択すべきかは先験的には一義的に決まっていないということです。重要なことは、日常言語の範囲内で、制限的にパターンを形成することそれ自体が重要だということです。そして、そのように書き方をパターン化することで、逆にそのパターンでの説明に習熟することができます。

第2に、説明対象の複雑性に対処する機能です。一般に、社会的事象を理解する場合、きわめて多くの変数を同時に考慮しなければなりません。それを日常言語を用いてやる場合、1つの現象を何度も言い直して述べる(=「多角的に述べる」というのはこれ)ことで、事象の性質を明らかにすることになります。また、1つの現象に対する複数の言及の間の関係についても必要に応じて言及することになります。さらに、これらの言及に際しては、言及していること以外にも、事象に影響している社会的変数が存在していることに配慮した書き方が必要になります。つまり、論文の文章は、説明対象の複雑さに対抗するものとして書かれるわけです。ここに必要なさまざまな工夫が、各自の文体として表れるわけです。例えば、脚注の使い方は、論者による工夫の特徴が出るところです。M. ウェーバーのようにやたら脚注を多用する人もあれば、本文中でできる限り書ききろうとする人もあります。この種の論文を書いたことのない人には説明が難しいのですが、結果としていえば、総じて端から見るとわざと回りくどい表現が選択されていたり余計な説明が加えられているようにみえます。それは、あたかも地雷探知機を頼りに地雷原で宝探しをしているようなものといえばよいでしょうか。地雷原のあちらこちらを歩き回って宝に迫るわけですが、それは地雷を縫いながらのプロセスです。ところが、端からそれを見ると、地雷が埋められていることがわかりませんので、無駄に蛇行しているようにみえるわけです。

第3に、著者の思考を整理する機能です。一例を挙げますと、日本語では段落には意味段落と形式段落がありますが、私は論文を書く際にはひとまず、論文の各節を意味段落の組み合わせとして構成します。英語のparagraphに近い発想です。そうすることで、論文を意味の塊である段落をモジュールとする構造として書くことができます。その上で、私は、論文作成の最終段階で、日本語として滑らかな文章になる(少しでも)ように、長い意味段落を複数の形式段落に割ります。このようにすることで、各モジュールごとに思考を詰めることができる、文字通り「分析」的思考を働かせることができるわけです。

私が大学院生の頃、論文の文体について教えてくれる人はありませんでした。それは、読書によって吸収したり、実際に論文を書いたりする中で、各自が見よう見まねで修得すべきものということになっていました。私の世代より年齢が上の研究者の多くがそうであるように、特に自分の文体を身につけようとして文体を身につけたわけではありません。それは、なんとか自分の思考を正確に表現・整理しようとした結果として、たまたま身についたものです。そして、今から振り返ってみて、文体の修得というのは「たまたま」身につくことに重要な意味があると感じています。

今日の大学は大変親切ですので、論文の書き方もかなり丁寧に教えてくれます。ただこれから論文の文体を身につけてゆこうとしている若い研究者や学生に了解していただきたいのは、そこで教えられるある種の文体=スタイルは、論文を日常言語で書く以上要請される言語的要請の「結果」にすぎないということです。「結果」を模倣することで文体ができあがると考えるとすれば、危険な誤解です。というのも、そのように誤解してしまうと、まともな論文がなぜそのように書かれているのかを了解することができず、また、自分が論文を書く段になると、論文に必要な思考が詰め込まれていない「なんちゃって論文」を書くことになってしまうからです。重要なことは、論文を日常言語で書くということが何を意味しているのかを理解することだと思います。

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