2011年10月3日月曜日

三宅島でみたもの

去る9月4日から8日にかけて、大学院・学部ゼミ生とともに三宅島を訪問しました。そのときお会いした三宅ふるさと再生ネットワークの代表佐藤就之さんから、「三宅新報」への寄稿を頼まれました。三宅島で数日過ごしただけの私に大したことはかけるはずもありません。とはいえ、思うところが多々あったことも事実なので、それについて率直な意見をフィードバックしておくことにも少しは意味があると思い、寄稿の件お引き受けすることになりました。以下はその原稿(未定稿)です。

三宅ふるさと再生ネットワーク
http://thoshikawa.com/miyake.furusato.net/top.htm

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 9月4日から8日までの日程で、ゼミ学生16名とともに三宅島を訪問させていただいた。島内各所を訪問し、三宅島での生活、産業、医療、教育、東日本大震災への教訓など実に多くのことを学ばせていただいた。私たちの訪問を暖かく迎えて下さった島民の皆さんに心より御礼申し上げたい。
 東京に戻る船中、1人の三宅高校の男子生徒と話す機会があった。彼が将来自分の力で「三宅村を三宅町にしたい」と意気込みを語ったことに、三宅島の明るい未来を見た思いであった。だが、その一方で、その少年の夢を叶えるためにも、島の大人たちには大きな仕事が残されているとも感じた。
 三宅島で現実のものとなっている超高齢社会への対応を例に考えてみよう。 超高齢社会において重要なことは、自宅で健やかに老いることができること、そのための地域ケアを、住民と行政が一体となって実現することである。これについて三宅島の現状はどうか。まず行政からみると、保健師、診療所、社協の間の情報共有や協力関係が十分であるとはいえないようである。特に島民1人1人の健康状態についての情報が十分行政に把握されていないことは、島民の健康に大きな影響を及ぼすと考えなければならない。1983年噴火当時阿古診療所に勤務していた箕輪良行医師が「診療所から持ち出した器具は役立たなかったが、阿古の住民1300人の健康状態をほぼ完全に把握していたことは大変役立った」と述べたように、地域ケアの要は住民の健康情報なのである。
 ではなぜ、住民の健康情報は行政に十分伝わらないのだろうか。私が各所で話を聞く中で感じたのは、究極的には住民と行政の距離が遠い点に理由があるのではないかということである。そして、その大きな原因が、2000年噴火に際しての全島避難にあるということである。つまり、三宅島では、噴火の爪痕が住民と行政の相互不信として残っており、それが島の高齢化対策に悪影響を与えているということなのではなかろうか。
 おそらく住民と行政の溝は、他の多くの行政サービスにも同様の影響を与えているであろう。とするならば、三宅島の復興の要とは、住民と行政が一体となって実質のある自治を実現することであるといえるのではなかろうか。少年の語った「三宅町」は決して不可能な夢ではない。だが、そのためには、住民と行政が島の夢を共有できるような地ならしが必要である。私は、それを三宅島の大人たちが大人の責任として実現して頂ければと思う。

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