2011年10月13日木曜日

ボランティアの生活モデル的基礎について

去る7月29日に大学院生有志の主催・企画による、一橋大学ボランティア報告会「興」が開催されました。一橋大学学生のボランティア参加を加速しようとする意図をもった企画だったのですが、なぜか私が基調スピーチを頼まれ、さらに何を思ったか引き受けてしまったために、しどろもどろで熱心な聴衆に話をするという、苦い(というか苦笑い)経験をすることになりました。さらにさらに、悪いことにその場に居合わせた学内雑誌Agoraの方から、原稿を依頼され、さらにさらにさらに何を思ったか依頼を引き受けてしまったのです。

編集者としては、「ボランティアってこんなに面白いんだよ」的な、ボランティア入門のような文章を期待していたのだろうと思います。実際、そういう文章を書いてみようともしましたが、自分がいかにボランティアのことを知らないかを思い知らされるばかりで、結局挫折してしまいました。

何度も原稿をボツにした後、やっと書き上げたのですが、気楽に読む学内雑誌におよそ似つかわしくない堅いものになってしまいました。

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社会の生活モデル化とボランティア

猪飼周平
一橋大学大学院社会学研究科

 「生活モデル」という言葉をお聞きになったことはあるだろうか。言葉自体は、まだまだ一般社会に浸透しているとは言い難いと思われるが、筆者の理解では、ここ4半世紀の日本社会の変化を理解する上でも鍵概念となるべきものの1つである。
 生活モデルの基本的な考え方は、ある人の生活上に発生する問題は、本人を含む環境の複雑な因果のネットワークの中に発生するというものである。このネットワークは、生態学の用語法になぞらえて、「エコシステム」と呼ばれることもある。
 たとえば、ある人が貧困状態にあるとしよう。このとき、戦後社会保障の基本的支援法は、これを単なる経済的資源の不足と捉えてお金を与えるものであった。だが、これでは必ずしも本人の問題が解決したとはいえないだろう。これに対し、本人の経済生活を破綻させた諸環境要因の因果的連関を解明することで、より効果的で、より多様な解決策を発見できる可能性が出てくる。また、自分の子どもを虐待する母親がいるとしよう。このとき、単に子どもを母親から引き離しても最良の結果は得られないかもしれない。母親を取り巻く環境や、母親の生い立ちを深く理解することで、母親と子どもの関係を両者に幸福な形で再建することができるかもしれない。
 つまり、生活モデルとは、生活問題を、本人を含むエコシステムの中に捉えることによって、原因、解決手段、解決を、多様なレベルで発見すること、それによってより最適な支援を目指す生活支援アプローチであるといえる。そして、この生活モデルは、戦後社会保障による単一原因・解決追求型の生活支援とは異なる新しいタイプの生活支援法として、1980年代以降、貧困、失業、障害、疾病、教育など様々な現場に根付いてきている。筆者の理解では、近年使われることの増えた「社会的包摂」概念も、この生活モデルへの支援観の転換の一部である。
 さて、ここで重要なことは、ボランティア活動が生活モデル的支援にとって格別の重要性を与えられる、ということである。前述のとおり、生活モデルは、生活問題への多様な解決法を示唆する。だが、一体誰がこの多様な解決法を実践するのであろうか。実際のところ、従来型の社会保障の支援装置としての行政組織は、このような多様性への対応を大変苦手としている。行政は、各組織や組織員に、かなりの程度定義された権限を与えつつ責任を負わせることを通じて業務体系を構築している。このような方法は、ルーチンの効率性、業務にある種の公平性を保証する一方で、未知の問題状況や解決方法に対してはうまく対応できないという弱点をもっている。
 これに対し、ボランティアは、行政の硬直性とは対極にある支援方法である。そもそも、権限を与えられていない代わりに、責任も負わされていない。このため、きわめて自由度の高い支援が可能である。支援したいときに支援したい場所で支援すればよい。公平性も一般に考慮する必要はない。支援したい人や集団を贔屓して支援してもよいのである。さらに、自分が見つけた方法で支援してもよい。この高い自由度という特徴は、ボランティアが、行政が苦手とする未知の問題状況や解決方法に即応することを可能とする支援技法であることを示している。そして、この特徴は、生活モデルにきわめて適合的であるという意味で、ボランティアが現代的要請に叶った支援技法であるということを示してもいる。
 近年のボランティア活動の隆盛は、日本人に善人/偽善者が増えた(ようにみえる)とか、公共的活動に関心を持てるだけ余暇が増大したとか、ボランティア活動の楽しさを発見する人が増えたといった表層的な状況を越えて、日本社会における生活支援の基本的な作法の転換によって要請された現象なのである。
 もちろんボランティア活動は万能ではない。その恣意的性格や、権限を背景としていないことからくる個々の力の弱さが裏目に出ることもあろう。だが、ボランティアであればこそ可能な支援の領域が、新しい支援観の光に照らされる形で、私たちの前に広範に広がっているという点については、広く理解されてよいと思う。

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