医療費の分野は、実証のディテールの部分に大変重要性のある分野で、私のようなディテールを分析する専門性を有していない者が口を挟むような事柄ではないようにも思われます。他方で、昨今の医療費の議論を見ているとヘルスケアシステムの全体というよりも、局所的な効率性ばかりが議論されているようにもみえます。いうまでもなく部分最適化が全体の最適化を意味する保証はありません。したがって、そこでは俯瞰的な立場からコストの全体的構図について議論することが必要になります。
そんなことから、筆者自身、かなりの能力的限界があるということを自覚しつつも、私なりに現在の「地域包括ケア」のコスト面について整理してみた、というのが下の原稿を書くに至った経緯です。
相手が病院関係者向けということで、最初は軽い文章を書くつもりでいたのですが、結局いつもの調子になってしまいました。
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地域包括ケアのコスト
猪飼周平
一橋大学大学院社会学研究科教授
1.
はじめに
先般、これから在宅分野に本格的に参入しようとしている医療法人の経営戦略担当者と話す機会があった。そこで概略次のようなやり取りがあった。筆者が、高齢者ケアについて地域で行うのと病院で行うのとどちらが合理的か、という質問したところ、「地域で行う方が合理的」であるとの返事であった。そこで、さらに筆者が、現在の医療法・診療報酬体系等を全部作り直せるという前提に立って地域と病院を比較した場合はどうか、と質問したところ、逆に「病院でケアするほうが合理的」であるとの答えであった。
このやり取りが意味していることは何であろうか。それは、第1に、一病院の立場からみれば、診療報酬その他の経営環境が地域ケアに有利化していることから、地域ケアに参入することは経営的に合理性があるということである。またそれは、第2に、今度はマクロ的観点からみると、地域ケアへの政策誘導は、病院が施設として本来もつケアの効率性を捨てることで、全体としてケアを非効率化に向かわせている可能性があるということである。
昨年度から厚生労働省は、本格的に「地域包括ケア」政策を推進している。これは高齢者ケアを、地域ベースで予防(保健)・治療(医療)・生活支援(福祉)を一体的に行うシステムを構築しようとするもので、病院経営に関わる読者もこの政策をどのように受け止めればよいかということで、情報収集に奔走された経験をお持ちではないかと思う。
では、その過程で「地域包括ケア」とは何のための政策なのか、という問いに対して満足できる答えは得られたであろうか。厚生労働省の説明は、大体次のようなものであるといえよう。すなわち、これから日本には未曾有の高齢社会が到来する。これを乗り切るためには高額な病院での医療をできるだけ節約し、地域ベースでのケアシステムを発展させるべきである、と。おそらく読者の中にはそんなものか、とひとまず納得した方もあるだろう。だが、冒頭の病院幹部とのやり取りは、このような説明が、病院関係者の率直な実感と必ずしも整合的でない可能性を示しているのである。
2.
地域ケアと施設ケア
まず、シンプルに考えてみよう。全く同じケアを在宅ベースで行う場合と、病院ベースで行う場合とでは、どちらの方が高くつくであろうか。コストでみればもちろん在宅ベースで行う方が相当に高価であろう。なにより移動に要するコストは在宅の方が相当に大きい。このコストは部分的には、移動そのものの費用として現れるであろうし、また部分的には、ケアのサービス量を確保するための必要な人員の増加として現れるであろう。またより多くの人員が面的に連動するためには、病院におけるよりも高度なコーディネーションを必要とすることになるが、これにも一定のコストを要することはたしかである。
このような事態は決して特殊ではない。一般に私たちは人口が集中的に分布することで大きなメリットを得てきた。その最たる例が都市である。私たちはこのような集積のメリットを活用して効率的な社会を構築してきた歴史を持っている。そして、なによりここで問題となっている病院そのものが集積のメリットを梃子に発達してきた社会装置に他ならないのである。
とするならば、厚生労働省は、このような病院における集積の利益を捨てても、地域包括ケア化することで別の効率化の利益が得られるので全体としてケアのコストが下がる、と主張していることになる。これは集積のメリットが一般であるとすれば、その一般的条件を覆す特殊的条件がヘルスケア政策に存在しているということを主張しているのと同じである。
3.地域包括ケアの経済性
では、どのような特殊的条件が考えられるのだろうか。これまで言われてきたことを整理すると、概略次の4点に集約できるであろう。
第1に、病院から患者を速やかに退院させることによって、病院による無駄な医療を削減できるというものである。この説明は、今日の病院ケアが、医療を必要な患者に過不足なく提供することに失敗している、という前提から出発すれば、ある程度説得力のある説明ではある。だが、読者の方々には、この説明がある種の「外科」的アプローチであることに注意を払っていただきたい。というのも、上の方法は、あたかも胃を全摘すれば胃癌もなくなるといっているのと同じだからである。このような考え方には2つの問題がある。1つの問題は、ある制度(病院)に無駄が発生するのであれば、制度(病院)を改良して無駄をなくすというのが通常もっともよい方法であるが、この「外科」的アプローチではその改良が行われないということにある。この改良をスキップして当面の費用削減だけを進めようとすると、たとえば、仮に政策によって患者が速やかに退院するようになったとしても、病院に残った患者に無駄な医療が行われる構造は温存されることになる。もう1つの問題は、退院させた先で新たな無駄が発生しないことが保証できないことである。つまり、ある患者のケアをする場所を変えることそれ自体には、ケアを効率化する必然性が含まれていないのである。
第2に、地域資源を活用することによってケア供給がスリム化するというものである。これがセルフメディケーションの強化ということであれば、専門的ケアを省くことによるコスト削減効果が見込めることはたしかである。だが、それが介護力を家族に移転することを意味するような場合、状況が全く異なっている。というのも、家族を介護力として活用した場合、そこには経済学でいう「機会費用」が発生するからである。介護する家族は、介護する代わりに外で仕事をして所得を得る機会をコストとして負担することになる。この場合、「地域資源の活用」は、ケアの費用を保険財政から社会全体に移転していることになる。
第3に、システム統合の利益である。ここに経済的効果の可能性があるのは疑いのないことである。というのも、どんなシステムであれ、複数のシステムが勝手に動作するよりも統合的に動いた方が(それができるのなら)効率的に決まっているからである。問題があるとすれば、それは次の2点である。1つは、地域包括ケアがシステムの効率性に関して統合の利益に焦点を当てることで、システムに関する統合以外の様々な効率化の契機を視野から脱落させる可能性があることである。もっともこの点については、地域包括ケアとは別に進めるのであれば、それでもよい程度のことではある。より本質的な問題は、システム統合そのものはそれが地域ケアとして展開することを必ずしも必要としていないこと、である。包括ケアが地域ケアである必要は少なくとも今のところあきらかではない。
第4に、予防の経済効果である。経済的には、疾病予防などは「問題の先送り」にすぎないという可能性も指摘されている。とはいえ、人生全体でのトータルの医療費を引き下げる方法の中に予防的方法もあるかもしれないので、この点は予防全体というよりもどのような予防に経済効果があるのかについての実証研究がなされる必要があるだろう。ただ、ここで指摘しておきたいのは、第3点と同様、予防それ自体は、治療、福祉領域を含めた地域ケアの必要を必ずしも要請しないかもしれないということである[1]。
これまでの議論を総合すると、およそ次の2つのことがいえるだろう。第1に、地域包括ケアには、医療費の削減に貢献する領域と、医療費の増加につながる領域と、コスト発生の形が変わるだけで医療費に関する効果が不明な領域があるということである。そして、第2に、医療費削減的な要素は主に地域ケアの部分ではなく包括ケアの部分に存在している、ということである。
このように考えてみると、ひとまず、厚労省による「地域包括ケア」が高齢社会を乗り切るための切り札としての政策である、という説明については相当慎重に評価しなければならないということがわかるであろう。
4.何のための地域包括ケアか
では、地域包括ケア化する必要はない、と考えるべきだろうか。この点について、筆者はあちこちで議論してきているので、詳しくはそちらをご参照いただければ幸いであるが、それらの議論を結論から言うならば、地域包括ケア化は必然であるということになる。ただし、それは上でみたような、地域包括ケアの根拠としては全く不透明なコスト節約的な理由に依るのではない。筆者の理解では、社会全体が、地域包括ケア的なケアをより好ましいケアのあり方であると認める方向に、歴史的時間の中で移行しつつある、というものである。そして、それは何も医療の世界に限った変化ではなく、人びとの生活・人生を支える広範な領域=「ケア」という言葉がかかわる全領域にわたる変化でもある。ヘルスケアはその変化の中にある。
このケア文化の変化は、1970年代の社会福祉分野にその淵源を発し、1980年代にはひとまず社会福祉領域で浸透し、さらに10年程度のタイムラグを挟んで、ヘルスケア領域に波及してきた。1990年代以降、医療の世界でも急激にQOLという言葉が浸透してきたのを、読者は記憶しているだろう。まさにこれこそが、上でいうケア文化の変化の波をヘルスケアが被ったことで起きた変化なのである。
QOLという概念を単に「治癒不能な患者に与えられるケア目標」という意味であると理解している方がいまでもあるかもしれないが、今日ではQOLという概念はずっと根底的な意味合いをもつようになっている。というのも、QOLは、いまや医療が貢献すべき究極的な目的となりつつあるからである。その意味では、もはや医療はQOLの手段にすぎない。このような状況の出現は、たとえば、近年の胃瘻に関する論争を想起してみれば明らかである。というのも、そこで議論されていたのは、「胃瘻を造設して延命をめざすことに何の意味があるのか」だったからである。
地域ケア化は、実はこのようなケア文化の変化の必然的帰結として導き出すことができる。QOLは、①当事者の既存の生活をできる限り引き継ぐこと、②当事者の生活ニーズに関する情報を効率よく集めること、③生活ニーズの多様性に対応して多様なニーズ充足を行うことによって効果的に増進することができるようなものである。とするならば、そのようなサービスを供給しやすいのは、病院や診療所の中よりも、地域社会においてであるということになる。このため、ケアシステムは、ケアを合理的に供給しようとする圧力が社会にある限り、次第に従来よりも在宅側に重心を移したシステムとなってゆくことになるのである[2]。
5.地域包括ケアの時代のために
ここまでの議論で述べてきたことをまとめると大体次のようなことになる。第1に、ケア文化の歴史的変動の中で、ヘルスケアがより地域的なケアに移行することには必然性があるということである。第2に、地域ケアにはコスト面からみて利点があまりないかもしれないということである。そして、第3に、現在政策として推進されている「地域包括ケア」は、どこでコストを削減し、どこでケア文化の変化に適応するか、という点が峻別されぬままにパッケージ化された、いってみればごった煮のような姿をしているということである[3]。
では、私たちは、このような混乱した状況の中で何を考えればよいのだろうか。本稿の最後にこの点について述べておこう。
筆者は、基本的な状況は実はシンプルだと思っている。というのも、ヘルスケアシステムが長期的に持続可能であるために何が必要かを考えればよいからである。ケア文化が変化し、人びとのケアに対する期待がより地域的なケアを求めている以上、それに応えなければヘルスケアシステムへの信頼が失われてしまう。また、コスト的に回らなければシステムが破綻することも自明のことである。とすれば、ヘルスケアシステムが長期的に維持可能であるためには、ケア文化に適応すること、とそれが維持可能なレベルのコストで運営されること、これは2つながらに必須の要件であるということである。どちらかのみをもっぱら考えることでケアシステムの未来を考えることはできない。
私たちが直面している課題状況も実はシンプルである。それは、この2つのシステム上の要請を2つながらに達成するケアの形を、まだだれも見つけていないということである。それは読者を含め、ヘルスケアにかかわるすべての人びとによってこれから見いだされてゆかなければならないものにほかならない。
参考文献
猪飼周平『病院の世紀の理論』有斐閣(2010年)
猪飼周平「地域包括ケアであるべき”根拠”とはなにか」『医療白書2012』第1章、日本医療企画(2012年)
(その他文献、対談等については筆者のウェブサイトからいくつかフルテキストで読めるものがあるので、必要に応じて参照されたい。http://ikai.soc.hit-u.ac.jp/)
[1] この点は、次の論点に還元できる。すなわち、予防を支援する専門職が公衆衛生医や保健師のように保健専業の職種であることが合理的なのか、治療や介護にかかわる職種が兼ねることが合理的なのか、という論点である。
[2] 地域ケア化と包括ケア化はその必然性の論理がかなり違っており、事実上地域包括ケア化という現象は、地域ケア化と包括ケア化の合成と考える必要がある。本文中では用語がこの認識に基づいて使い分けられているので、厳密に読みたい方はこの点に注意をされたい。
[3] 筆者は現在厚生労働省が推進している「地域包括ケア」が間違っていると言いたいのではない。現在推進されている政策は、複雑な政治過程の産物であり、それがパッケージとして論理的に明快な姿をしているべきであると考えるとすればナイーヴすぎるだろう。むしろ、ここで述べておきたいことは、このような表面的な姿の背後で、現在のヘルスケアシステムの構造、および要素としての各政策の機能・波及的意義について整理されている必要があるということである。そしてこの整理は単に政策立案者のみが知っていればよいのではなく、実践側にもよく知られている必要があるということである。
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