2014年2月14日金曜日

2013年12月のシンポジウムにおいて

昨年12月の文科省のシンポジウムに講演者として呼ばれました。報告書作成のためにテープ起こしをして下さったものを頂きましたので、転載しておきます。

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平成25年度・文部科学省 先導的大学改革推進委託事業・医学・看護学・歯学チーム合同シンポジウム

【基調講演】

「ヘルスケア人材供給に関する長期戦略について」

一橋大学大学院社会学研究科
教授 猪飼 周平

【座長:北村】 それでは、早速ですが、基調講演に移りたいと思います。最初に基調講演をお願いしたのは、猪飼周平先生です。お手元の資料にご略歴がありますので、省略させていただきますが、医療者ではなくて社会学者であります。9月に私の所属している  東大のセンターで、一度ご講演をいただきまして、社会学者から見たヘルスケアの変動というものは、われわれがもっと知っておくべきものだろうと、非常に感銘を受けました。今回のシンポジウムにあたりまして、お忙しい中、ぜひ余人をもって代えがたいからお願いということで拝み倒して、出ていただくことになりました。ぜひ社会学者の先生から見たヘルスケアの今後ということで、お聞きいただければと思います。簡単ですが、では猪飼先生、お願いいたします。

【猪飼】ただ今、過分なご紹介をいただきました猪飼です。現在、一橋大学で医療政策の研究をしております。研究の仕方としては、主に歴史的な資料を使って研究をするという手法を使っています。恐らくこれまでの医療政策やヘルスケア関係のいろいろな研究の文脈では、あまり類例がないようなタイプの研究ですので、もしかすると初めて私の研究についての話をお聞きになる方には、少し戸惑いもあるかもしれませんが、それは、基本的に狙っているところが、本日のタイトルにもあるように、長期の戦略についてである点が主要因となるように思います。通常行政の感覚でいくと長期といっても最長10年とか、あるいはもうちょっとくらいだと思うのですが、私の研究をしている長期というのは、短くて四半世紀、場合によっては半世紀先というぐらいの非常に長いものです。

このような超長期の政策にとって可能かつ意味のある知識とは、いわゆる具体的にこういう制度をつくればいいとか、法律などに直接落とし込むためものではなくて、もっとその手前にあるもの、例えて言えば、方角を教える「北極星」のような知識になります。方向が分かれば、それに基づいて様々な戦略や制度の設計が、可能になってくるわけです。その意味では、私の研究は、政策の前提に影響する、そういったタイプの研究だといえます。

四半世紀とか半世紀といった政策的には超長期の未来に関して、従来研究で一番効果を上げてきたのは、いわゆる人口推計に関する研究です。というのは、人口は推計が当たるからです。他方で、それ以外の様々な社会的な要素については、従来あまり当たらないと考えられてきた。ただ、実際には、これから何十年かの間に起こることというのは、人口の変化だけではないわけです。価値観も変化するし、人の性質も変わっていく、社会の構造も変わっていく。このため総体としてある社会の未来というものを考えようとすると、様々な要素が変化することを前提として本当は考えなくてはいけないわけです。このため、社会科学者の間では、未来というものは例外を除けば予測することが難しいということで大体合意があって、未来に言及する社会科学研究そのものが、冒険的とみなされる傾向があります。

ただ、そのような中にあっても、歴史に関する情報は、現在、社会科学的な文脈で知られているものでは、比較的未来とつながっていると考えられています。例えば、社会科学の分野の一つに、未来学といわれるような分野があります。未来学の研究というのは、実際にはその種の本を開いて頂くと分かるのですが、概ね歴史の分析になっているはずです。つまり、未来を理解するということの最も必要な情報というのは、歴史的な資料として存在している。そこにあるのは、ただ単に昔のことを知ることが楽しいというようなレベルの、あるいはそこから教訓を得るというレベルの、いわゆる楽しみとしてやる歴史とも、あるいはある時代の社会そのものを解明しようとする歴史学とも違っていて、過去の材料を使って、ある種政策的な展望を構築していくという、そういうタイプの研究です。未来学とみなされていないものでも、たとえば政治学、経済学、社会政策学などの分野では従来から、政策史という研究領域があり、多くの研究蓄積がありますが、それらの研究の多くは未来学同様未来の政策への展望的知識を狙って行われてきています。その意味では、私が行っているような歴史的アプローチは、ヘルスケアの分野ではこれまであまり行われてこなかったものに属していますが、社会科学一般からみると決して特殊なものではありません。

前置きが長くなりましたが、本日は、そういった社会科学の伝統の上に立って、長期の人材戦略につながるような話をしたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。


高齢化の裏側にあるもの

さて、歴史的アプローチに立ったときにまず見えてくるのが、今のヘルスケアの最大の課題は人口高齢化であるという、各所で前提的に語られている言説のバランスの悪さということになります。

例えば、在宅という分野を考えてみましょう。在宅という分野に関して、先駆的にそういう取り組みをしてきた方々には、戦後から1980年、場合によっては90年ぐらいまでを総じて先駆といってよいかもしれませんが、いろいろな方々がおられました。そういう方々の仕事を振り返った時に、彼らがどういう問題意識で在宅という分野に取り組んだかというと、やがて高齢化するから、そのために準備しておこうという意識ではなかったでしょう。彼らは何を考えていたかというと、在宅というケアは良いケアなのだ、ということでした。在宅ケアは非常に良い性質を持っていて、質的な意味で在宅ケアというのは、いわゆる施設的なケアにはない重要な良さがあるのだという認識に基づいて、その信念で、日の目が当たらないような状況の中であっても、そういう課題に取り組んでおられたわけです。

それが実はある段階から、在宅ケアは高齢化の問題なのだと、議論が変わってゆく。それは高齢化をしていくと、高齢化に対応するためのケアシステムが必要になるとか、資源整備が必要になるという観点から、そういうことが言われるようになり、それを実現するためには、在宅ケアというものをうまく活用していくことが必要なのだという議論に取って代わられてゆくわけです。

後でまた言及しますが、人口高齢化への対策として、在宅ケアというのがどれほど有効なのかというと、実は、論理的にはあまりつなげることができません。高齢化について、多くの政策担当者の方々が強く意識するのは、財政的な逼迫(ひっぱく)の問題です。高齢者ケアに大きな資源を投入しなくてはいけないので、そのための人材整備だとか、資源整備なわけです。ただ、それをどういうふうに進めていくのがよいか。特に財政は非常に強い制約を受けていく中で、どうやっていけばよいのかと考えた時に、今まである意味施設という「点」で行われたケアを、地域という「面」で展開するということは、普通に考えると合理的ではないはずです。要するに、コストが上がってしまうと考える方が、自然なわけです。トランスポーテーションコストやそれに伴う調整コストが、すごく上がると考えなければならない。つまり、地域ケアみたいなものを展開することで、直線的にケアが安くなる、要するにそれに対応できるような財政的な逼迫を、緩和してくれるようなものになるという保証が、そもそも自明でないわけです。

にもかかわらず、高齢化イコール在宅ケアで、それは安いんだということが言われていた時期というのがありました。厚労省も地域包括ケアを推進する際に、当初はそういうロジックで政策推進をしていたわけですが、現在ではその看板をかなり下ろしていて、安くなるということはあまり言わなくなりました。実はそのぐらいここは誤解を含んでいる可能性のある論点なのです。それがまず一つ。

そうだとした時に、それでは地域ケアとか在宅ケアとかいうものは、そもそも何のためにやるのか。そこに結局話が戻っていくわけです。ただ、全体の流れとして、地域ケア的な方向にケアが進んでいくというのは、私は正解だと思います。それはなぜかと言うと、高齢化とは一義的には必ずしもつながっていない部分で、大きな社会の変動があって、それはある種価値観の変動なのですが、その価値観の変動が、地域ケアというものを良いケアだと認識する方向に向かって、社会が動いている。つまり、人々のニーズというか、要請というか、こういうケアがあってほしいという願いをかなえていく方向に向かって、ケアシステムというものを再構築していくと、おのずと地域ケア的なものになっていくという、そういう状況が生まれつつある。この変化が今歴史的に起こっている。


ケアの生活モデル化

今、ケアの世界で起きていることを一言でまとめると、ケアの「生活モデル化」ということができると思います。生活モデルという言葉自体は、もともと障害者福祉とかソーシャルワークの領域で作られた言葉です。それが作られたのがだいたい1980年ごろなのですが、それと同じ時期に、WHOICIDH1980年)というケアモデルが発表されたわけです。今はICFですが、これは言ってみれば障害や疾病の分類の基本的な枠組みのモデルだけですが、重要なことは、ケアがどういうふうなケアで行われることが望ましいのかということについての理念のある種国際的な合意というか、最大公約数的なものを意味しているとみることができます。

そこで、生活モデルはどういうものかについて、ごく簡単にお話しさせてください。一例で脳卒中という病気を考えます。それによって障害が残りました。例えば、片麻痺が残った。それで字が書けない。それでコミュニケーションが社会の中でうまくとれないという状況があった時に、生活モデルの一つの重要な特徴というのは、究極的なケアの目標はQOLだと考えるわけです。QOLが何かということは、後でまた議論しますが、とにかく生活の質という言葉通りの意味だと、ひとまず考えてください。そうすると、ここの質がどれだけ高いかというところに、生活モデルというのはフォーカスを当てるということに対応している。

生活モデルの意味を理解するためには、その対極となるケアモデルをみるとわかりやすい。上で言及したような脳卒中の状況があった時に、生活モデルに対置されるモデル、これは20世紀を通じて医療の世界において一番卓越していた価値観、ケア観なわけですが、それは「医学モデル」と呼ばれるものです。医学モデルでは、脳卒中によって様々な派生的な問題は起こるかもしれないけれども、問題の根幹はここである。だから、脳卒中をもし完全に治すことができるのであれば、その先の付随的な問題は起きないわけだから、ここを治してしまおうという発想になります。この発想に基づいて、治療のための様々な資源であるとか、研究資源みたいなものを集中させていく。そして、これこそが20世紀の医療を席巻したケアモデルでもあったのです。

これに対して、生活モデルというのはどういうふうに考えるかというと、要はQOLが上がればいいわけだから、病気が治るのならそれはそれでいいけれども、治らなくても、狭義のリハビリテーションをやればいい。それがうまく行かなくても、例えば字が書けないという問題であったら、利き手の反対側をトレーニングするとか、あるいはPCを使うとか、様々なサポートを使って字を書けばいいかもしれない。それでも例えば、非常にがっかりしちゃって、外に出るという気力がなくなってしまっているとか、いろんなことが起こり得るわけですが、そういう場合には様々な人のサポートを借りて、人とコミュニケーションの場に出ていけばいいのかもしれない。そうやって考えるわけです。これが実は生活モデルという考え方の原型的な姿です。

ここで、医学モデルと生活モデルとでは何が違うか。ポイントは、実は原因観なのです。原因観の違いとは何か。原因という概念は、究極の原因は存在しないというところに、重要な特徴があります。要するに、原因にはその原因となる事象のさらに原因を考えることができ、原因の原因の原因、原因の原因の原因の原因みたいにして、いくらでも遡っていくことができるわけです。つまり、原因というものは、究極の原因がないところに、その特徴がある。とすると、実は医学モデルというのは、無数にある問題状況の発生させる原因の中の一つ、要するに医学的にオペレートできるような部分だけをつかまえて、問題を解決しようとするタイプの、一種の還元主義的なアプローチなわけです。

これに対して、生活モデルというのは、原因が無数にあるということを、そもそも前提として認めて、原因が無数にあるということは、原因ごとに対応策を考えれば、論理的には対応策も無数に考えられるわけです。そこには、効果的なものとか、そうじゃないものとか、選り分けだとか、様々なものが起きるでしょうが、論理的には無数に対策も含めて考えることができるわけです。そうやって様々なレベルでの原因をつかまえて、そこで対応していこうというのが、実は生活モデルの基本戦略なわけです。

さらに、これは医療の世界だけで起きている変化ではなくて、人が人を支援するというような様々な領域で同時に起こってきている変化で、医療の変化よりはずっと大きな変化を背景にしています。その変化の中に飲みこまれるような形で、生活モデル化というのが、医療にもその波が押し寄せてきていて、実際にケアの考え方が、医学モデルから生活モデルに向かって、徐々に変化してきている。

生活モデルから見ると、医学がどう見えるかというと、治療医学の世界というのは、重要ではあるけれども、その人の生活を支えていく無数に存在し得る手段の中のあくまで一つという位置付けに変わるわけです。実は、今の医療の世界が直面している問題は、この医療の位置付けの変化に、どう適応するかという問題なわけです。

ICIDHを発展させたICFは、このような考え方を一般化したものです、たとえば、原因は互いに一つの結果の原因は一つとは限らないです。たくさんあるかもしれないし、互いに原因と原因が総合的に、要するに独立でない可能性もあります。そういうことを全部考慮すると、ある一人の患者なり当事者なりの状態は、様々な原因となる要素の網の目というか、ネットワークの中の結節点に置かれることになるわけです。そういうのを、エコシステム的な原因観といって、ICFはそれを非常にきれいに表現しているわけです。

先ほど少し申し上げましたが、この変化というのは、実は広い意味での福祉、要するに人が人を支援するという意味での最広義の福祉の全域で、このケア観の転換は起きています。先ほども、例えばICIDHなんかもそうですが、あれは障害分類なのです。結局、障害者福祉の領域で先行的に変化が起きる。さらに、その障害者福祉での領域での変化は、それだけで起こったのではなくて、実は生活保護とか様々な社会支援の領域で、同時に起こってきたものの一種なのです。

たとえば、社会的排除という言葉をお聞きになったことあるかもしれませんが、今、EUの社会政策の中心政策は、社会的排除に対する包摂政策というのが、政策の中核になっています。この社会的排除という考え方は、実は先ほど言ったエコシステム的な原因観そのものを使っています。つまり、これは1970年代の後半ぐらいから徐々に現われてきて、80年代ぐらいには、福祉領域ではある種コンセンサスになる。ただ、医学モデルの非常に強かった医療の領域では、そこから10年ぐらいのタイムラグがあり、リハビリテーションの領域では、上田敏先生のような先覚的な方々が、そういうものの重要性を主張しておられましたが、本格的に医療の世界に入ってくるのは90年代に差し掛かってから、つまり、10年ぐらいのタイムラグがあってからです。ただ、それからもう20年以上がたち、今、ヘルスケアの領域も、大きくその生活モデル的な価値観に飲みこまれようとしている。そういう状況です。

医療の世界を、歴史的に振り返ってみると、20世紀を通じて医学モデル的な価値観が卓越していました。医療をやるときに、これまでの常識というのは、病院と診療所という2つの中核的な制度を使うシステムなわけです。この病院と診療所というものが、なぜ長年医療の基本とされてきたのか。これは端的に言えば、患者を治療する上で都合がいいからです。つまり、患者を医学的な意味で治癒に導くために合理的な制度を追求していくと、おのずと病院と診療所という二元的なシステムの型になる。私たちは、比較的最近まで、医療といえば病院と診療所という二元的システムによって供給するものだということを自明のことと考えてきましたが、この自明性はまさに、医学モデル的価値観が医療界全体を20世紀を通じて包み込んでいたからなのです。

それが今のように生活モデルのような形で、違う目標に置き換わるとどうなるかというと、システム的な大変動が起きてしまう。要するに、これまで前提だったことが、前提 ではなくなっていくわけです。現在私たちは、地域包括ケアだとか、多職種連携だとか、新しいケアの形を求めて右往左往しているわけですが、この状況を本当に作り出せるのは、高齢化ではなく、20世紀的な医学モデルから生活モデルへのケア観の転換なのです。高齢化は、資源整備の部分でケアシステムを部分的に制約している存在にすぎません。

ここはちょっと話し出すと長くなるので割愛しますが、簡単に言うと、生活モデル化  すると、生活モデルというものを前提としてケアシステムを構築しようとすると、おのずとケアシステムは、地域包括ケア的な姿を取るというのが、ある種自然になってきます。そこにはいろいろな要素が絡むので、単線的にそっちに向かうわけではないのですが、生活モデルを原則として理解して、それに向かって進んでいく。要するに、20世紀における医学モデルと同じように、そういうものが進んでいけば、ケアシステムはおのずと地域包括ケア化するということが、論理的に言えます。これはちょっと別のところでいろいろ議論したり、紙で書いたりしているので、関心のある方はお読みいただければと思います。

そう考えたときに地域包括ケア、今の焦点になっている政策ですが、これをどう理解  することができるかというと、実は従来医療界で言われてきたのは、1(スライド7の①)です。しかし、これはやや論理的におかしいといわざるをえません。この議論は生活習慣病中心になってきて、治らない人が大量に出てきたから、QOL、生活モデルだと言っているわけです。ただ、実は時代をさかのぼればさかのぼるほど、生きている人たちはみんなどんどん今の観点から見ると、不健康に生きているわけです。要するに、それが医学の進歩というものの意味です。そう考えると、実は時代をさかのぼるほど、本当はQOL重視の社会にならなければいけません。

次に、②の安上がりというのが成り立たないというのは、最初に申し上げた通りです。結局、③のようにケアの質が良いからやるという論理でなければ、地域包括ケアとは成立する根拠を見いだせないものなのです。ただ、生活モデル化というものを引き受けて、それを認めて、それに基づいてケアをやっていこうとすると、地域包括ケア的なものになるという意味なのです。

もう時間がないので、ごくごく簡単に申し上げます。そうなった時に、地域包括ケア、幾つかの特徴を帯びます。お配りした資料の中で少し書いているのですが、簡単に言うと、QOLを支えるということが、ヘルスケアにとっての一番重要な目標になるわけです。そうなった時に、患者あるいは病院に入院している患者って、どういうふうな存在に見えるか。従来長年厚生行政というのは、いわゆる社会的入院の解消というのを、政策の中心に掲げてきました。ただ、生活モデルで考えてみると、社会的入院でない患者なんていません。どんな人でも、医療ニーズと生活ニーズを両方抱えていると考えなければ、ケアが成り立たない。

そう考えてみると、今、病院が8,000ぐらい日本にあるわけですが、医学的な治療の効率を高めていって、在院日数を短くしていくということが、効率性を持つような病院というのは、要するにヨーロッパやアメリカの病院がそういう病院だと考えると、それに対応する病院というのは、8,000のうち恐らく1,000からちょっと多いぐらい。残りの日本で病院と呼ばれるもののほとんどは、実は生活と医療というものを、両方供給できるような柔軟な組織でならなければならないという結論に、必ずなるわけです。これに今の日本の医療システムは、対応できていないわけです。考えてみれば分かりますが、生活ニーズと医療ニーズを両方持っている人に対して、私たちの施設は医療施設ですから、医療ニーズにしか対応しませんというサービスの仕方が、合理的かということです。当然不合理だし、効率が悪い。ここの部分は、長期的に見ると、必ず変わっていかざるを得ない。そういう領域です。

あと、もう一点申し上げておきますと、QOLとは何かという問題。医学のいろいろな  論文等で、QOLの測定尺度、SF-36とかEuro QOLとか、様々なものが提案されていますが、これらのすべては、QOLを測定してはいません。それはまさに血圧計や体温計が、健康を測定しないのと同じです。生活の質それ自体を、測定尺度は測定しないのですね。要するに、客観的な指標を参考に使うために考案されている。ただ、それが自己目的化しやすいということで、QOLイコール測定尺度によって測られたものだという認識が広まりやすいのですが、QOLというのは究極的に測定できない。

ここでもし、究極的にあなたはどんな生活がいいですかと、例えば質問されたとします。これに答えられる人はいません。たとえば学生に質問すると、南フランスでクルーザーに乗って暮らすこととか言うんです。だけど、本当に南フランスでクルーザーに乗りたいのって聞くと、いや、どうですかねみたいにだいたいなります。他の人に南フランスでクルーザーに乗りたい人って聞くと、あまり手が挙がらない。つまり、お互いにそれが望ましいという形で合意できない。非常に多様性が高い。しかも、自分自身でも具体的にそれをイメージすることができないようなものが、QOLのオプティマムの領域です。

それを目指していくシステムとは一体何なのか。医学モデル的な世界においては、医学という限定が付くけれども、何を目標にするかというのは、客観的に知ることができました。そこを目指せば良かった。それに対してQOLというものを目指そうとすると、それが分からないということを前提に出発しないといけません。ここが実は20世紀的なシステムと21世紀的なシステムの大きな違いです。そこで、やはり旧来的な発想をする医療の研究者たちというのは、それを医学のかつての領域に引き寄せたいので、一生懸命「測定尺度」すなわち客観化する道具を作ろうとします。そして膨大の数の提案がなされる。これは、いってみれば、「ないものねだり」です。

これに対して、従来のさまざまな社会的な技術として、それが何だか分からないものを取り扱う技術が実はあります。例えば、わが国の憲法でも憲法第13条で明文化されている幸福追求権がそれです。憲法が何を定めているかというと、幸福とは何かということは分からないけれども、それぞれの人が自分の幸福を追求することを、他人に邪魔させないということを定めている。これは、自己決定権の尊重につながります。近代社会では多くの場合、これでうまくゆきます。医療関係者の方に知っておいて頂きたいのは、幸福のように不可知なものであっても、それを無理に客観化、指標化しなくとも社会的に取り扱う方法が存在するということです。

とはいえ、自己決定権とおなじやり方は、直接ケアの世界に適応しても、とくに日本を含むアジア的文脈では上手く行かない可能性が高いです。というのも、自己決定することが難しかったり、そういう能力がうまく発揮できないような方たちというのを、特にたくさん対象として含むシステムが、ケアシステムだからです。

とすると、この幸福追求権とは違うやり方を、模索しなくてはいけない。そこがどうやってそういうものをつくっていくかということで、ここでは時間の関係で詳しくはお話しできませんが、1つだけ私がヒントとなると考えていることをお話しすれば、たとえば、ケアの中で「寄り添う」という行為がありますが、これは実は自己決定でもなく、パターナリズムでもない領域を狙った、非常に重要なタイプのケア的行為です。このような行為の合法性をうまく保障することができれば、幸福追求権とは別のやり方かつ客観化とは別のやり方で、QOLを支援することができるのではないかと考えています。

最後に、人材の条件ということで考えた時に、一つ重要なポイントがあるということを述べて起きましょう。簡単に言うと生活的な価値に関与できる能力というのが、医療者に求められる。これは在宅ケアに関わる医療者のみならず、急性期の病院に勤めている医療者にも、求められるわけです。要するに、退院した後、その人がどういう療養生活を送るのかということを、イメージすることができなければ、病院の中だけで最も安全な医療の手段を選択してしまいます。そうではなくて、療養の大きなサイクルの中で、その人が家に帰ってどういう暮らしをしながら薬を使うのだろうか、どういう暮らしをしながら生活するのだろうかを、イメージできなければいけません。とすれば、そこには能力的な条件があって、医療者は人間に興味がある人でなければならないということになります。だから、医学教育というのは、私は18才で入れるのは早いと思っています。簡単に言えば、そこをスクリーニングできないから。それはそういうふうに考えていますが、いずれにしてもそういう能力を持った医療者を、中心に置かなくてはいけない。そういうことになります。

さらに言うと、地域連携の基本とは、実は生活というのは、ニーズがものすごく多様で、個別性が高い。とすると、私はこのケアをします、私はこのケアをしますということをかき集めて、それらの専門分業でシステムをつくっても、その外側にニーズが必ず発生しまう。つまり、生活ニーズに対応できるようなタイプのヘルスケアの専門職は、柔軟に自分が何をするのかということを、その場で選択しながら、目的に向かって進む。要するに、目標設定を前提として、その中で仕事を分配していくようなタイプのチーム組織が必要であり、その中で働けるようなタイプの人が必要です。そうすると、おのずと地域連携とか多職種連携といいますが、チーム内で能力的に重複は発生する。このような能力の重複を認めない地域連携は効率的に回らない。

概して、保健師だったら、保健師にしかできない仕事は何だろうと考えて、保健師の仕事を探しがちです。あるいは、訪問看護師にしかできない能力って何だろうとか、そういう方向で物事を考え、そこでそれを専門化していって、職業として形をつくっていこうとしがちです。私の理解ではこのような独自性の探索とは違うアプローチが必要です。それをやらないと、多分これからのケアのニーズに、対応できないということになると考えています。

少し時間が長くなりましたが、ここで終わりたいと思います。ありがとうございました。

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