2014年7月10日木曜日

地域包括ケア政策をどのように理解すべきか

以下は、日本薬学会大134年会における講演のafterthoughtsとして書いた、地域包括ケアに関する短文です。とくに目新しいことは申し上げていませんが、ご関心のある方はご笑覧頂ければ幸いです。



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地域包括ケア政策をどのように理解すべきか


0. はじめに

現在「地域包括ケアシステム」に関する政策が本格的に推進されているということはご存知かと思います。では、そもそも地域包括ケアとは一体何でしょうか。また、なぜ地域包括ケア化する必要があるのでしょうか。さらに、地域包括ケアシステムを構築することでどのような政策目標を達成すればよいのでしょうか。おそらく多くの方々にとって、これらの問いに明確に答えることは難しいと思います。ただ、それは読者に原因があるのではありません。なぜなら現在の「地域包括ケア」政策自体に、概念や目的に大きな混乱があるためです。

今大会における講演では、この概念や目的に関について、どのように組み立て直せばよいかについてお話ししたところですが、以下では、その概要を簡単に再説してみたいと思います。


1.地域包括ケア化はケアの歴史における重大な転換を意味する

地域包括ケアが、とりあえずより地域的でより包括的なケアシステムと大雑把に理解しておきましょう。ただ、これだけでも、従来のケアシステムに大きな変化をもたらすものであることはわかるでしょう。従来医療は、病院と診療所という階層的な施設群によって主に担われてきました。それが、医療施設という枠を大きく飛び出して地域全体で医療が行われるようになります。さらに、そこで行われるのは従来の医療=患者の病気を治すだけでなく、病気・障害の有無に拘わらず住民の健康的な生活を全体として支えるという、非常に包括的な活動になります。

20世紀を通じて、日本を含む先進諸国では、病院/診療所という二元的構造を軸にしつつ発展してきました。その過程は、ケアの地域化や包括化とはむしろ反対の過程であり、それは施設化や医療システムの孤立化の傾向をもっていました。施設化については、たとえば往診の衰退や出産や死の施設化などさまざまな現象によって確認することができます。また、孤立化についていえば、20世紀を通じて、医療は保健(公衆衛生)や福祉とは直接の接続をもたない自己完結的なケアシステムを営むようになりました。その意味では、地域包括ケア化は、この20世紀的な歩みを反転させるということであり、まさに歴史的なケアシステムの転換を意味していることになります。


2.政策化の過程で地域包括ケアという概念は混乱した

政策一般にもいえることですが、現在厚生労働省が推進している「地域包括ケア」政策も、現実の政策となる過程でさまざまな利害当事者との調整や、財政状況その他の政策環境に強く影響を受けています。その結果、「同床異夢」といいますか、さまざまな利害や思惑が交錯しており、それぞれの関係者は、自分に都合の良いようにこの政策を解釈して利用しようとしています。このために、地域包括ケアが一体何なのか、なぜ地域包括ケアを構築する必要があるのか、それによって私たちはどのようなケアの将来が実現するのか、そういう基本的なところがぼやけてしまっています。

地域包括ケアを、医療費を下げるためのシステムだと解釈する人もあれば、高齢化対策の一環であると解釈する人もあります。さらに、病院から医療必要度の低い患者を追い出す方法だと解釈する人もあります。もちろん、人びとにとってより望ましいケアシステムであると解釈する人もいます。もっとも、思惑が違っても、必要とされるケアシステムが全く同じものであるとすれば、この解釈の差は問題になりません。この場合、地域包括ケアシステムは、利用者一人一人の関心に応じて好きなように利用すればよい、図書館などと同様の、共通のプラットフォームということになります。

ただ、残念ながらそのような都合の良いことにはなりそうにありません。地域包括ケアがいろいろな用途に用いることができるというのはある程度事実ですし、政治的合意のためにはそのようなパッケージングが不可欠であることは確かですが、実はシステムの目的が何であるかによって、ケアシステムの姿は時間を経るに従って大きく異なってゆくことにならざるをえません。地域包括ケア化は、歴史的な時間の中での変化であり、それは長い時間の中で進行する変化だと考えなければなりません。とすれば、長期的に私たちのケアがどこに向かおうとしているのか、ということを知ることこそが、地域包括ケア政策に目的を与えるものであるといえるのです。もしここで私たちのケアの長期的展望を見誤ってしまうと、私たちのケアの自然な発展の方向とは異なる方向に政策を推してしまうことになり、長期的には軌道修正のために、かえって大きな社会的・経済的コストを払うことになってしまうと考えなければなりません。


3.高齢化対策として地域包括ケアは有効でない

議論の詳細については別稿 において議論していますのでそちらに委ねるとして、ここでは概略だけをお話しします。結論から申しますと、高齢化対策という意味では、長期的には地域包括ケアシステムは有効性が低いということです。

なにより、ケアコストの抑制という意味で地域包括ケアは有効ではありません。というのも、単にケアの効率性ということだけを考えるのであれば、施設のような限られた場所にケア対象者を集めて対応した方が基本的には効率的だからです。地域包括ケアシステムは、この効率的環境を放棄することを前提とするシステムで、他の部分で効率化するにしても、基本的に不利な条件からスタートすることが宿命づけられたシステムなのです。したがって、「地域包括ケア」が政策化されて以降、厚生労働省は「高齢化を乗り切る(財政的な意味で)にはこれしかない」という立場に立ってきましたが、その実地域包括ケアは高齢化を乗り切るには余り向いていないといえます。

高齢者が特に地域包括ケアを必要としているのでもありません。高齢化のより進んだ地域(たとえば中山間地域など)において、より地域包括ケアへの共感が拡がっているという傾向は観察されません。医療関係者の中には、生活習慣病を抱えながら生きて行く高齢者が増えれば、ケア目標は自ずとQOLに向かい、その結果より地域的なケアが望まれるようになると考えている方が多いように見受けられますが、もしそうなら、高齢化の進んだ地域においてより地域ケアを人びとが歓迎しているという事実が観察されるはずですが、実際はそうではありません。


4.歴史的潮流から政策目標を探す
 
高齢化対策として地域包括ケアが有効でないとするなら、一体、地域包括ケアは長期的にみて何の目的で行えばよいのでしょうか。

ここで、地域包括ケアシステムには先駆が存在するということを思い出してみましょう。戦後の地域医療の取り組みをみてゆくと、有名無名に拘わらずさまざまな方が、少数派ではあれ、事実上の地域包括ケア化に取り組んでいました。それらの人びとからみれば、現在の地域包括ケアは、「何をいまさら」というものにすぎません。たとえば、ここで佐久総合病院の事例を考えてみましょう。驚くべきことに、佐久では事実上の地域包括ケア化が戦後直後から進められていました。さて、そこで佐久の関係者達は、何のためにそれを進めていたのでしょうか。もちろん、高齢化でもなく(むしろ当時は多産が社会問題だった)、医療費の抑制でもありません。それは、地域包括ケア的なケアが、人びとをより幸せにするケアであるということを信じたからに他なりません。

ここで、私たちの社会に、地域包括ケア的なケアがよいケアだと、住民、患者、実践家といった人びとに幅広く認められてゆく歴史的な傾向が見いだせるとすると、どうなるでしょうか。いうまでもなく、佐久のような試みはより社会に普及しやすくなり、長期的には日本のケアシステムも、全体としてより地域包括ケア的なケアシステムに近づいてゆくことになるでしょう。そしてその傾向は、社会の高齢化の度合いがどうであれ、地域包括ケアシステムのケアコストの節減効果がどうであれ、みられることになるでしょう。逆に、地域包括ケアに反する政策が打たれたとすると、人びとのケアに対するニーズから離れてしまい、それを修正するために大きなコストが発生するか、人びとの間にケアに対する不満が蓄積することになります。このような歴史的トレンドが存在する場合には、ケアに関する政策は、生活モデルから大きく離れることは不合理である、ということになります。


5.生活モデル化による地域包括ケア化

とすると、地域包括ケア政策にとっての最大の焦点は、地域包括ケアを好ましいという認識が広まって行く長期的なトレンドが存在しているかどうか、に集約されることになります。そして、私は、この長期的なトレンドは存在すると理解しています。その最大の根拠は、ヘルスケアのみならず、広義の福祉、すなわち人の暮らしを支える活動全般にわたり、1970年代の後半以降、支援観の転換(どのようなケアが望ましいかについての価値観の転換)が進行していることにあります。つまり、①支援の究極的ゴールを生活上の価値(QOL)の増進におき、かつ、②それを達成するために、当事者の置かれている状況をエコシステムとして捉えなければならないという支援観が浸透しつつあるということです。これは、ソーシャルワークの領域で「生活モデル」と呼んできた支援技法や、社会政策の領域で「社会的排除」という概念を利用した社会問題の把握法、社会福祉学において1980年代以降盛んに議論されるようになった「普遍的福祉」などは、それぞれニュアンスの違いはあれ、上記2点の支援観を包含した概念となっています。上記2点の支援観に基づいてケアシステムを構築しようとすると、その形態は自ずと地域包括ケア的なものとならざるを得ないのです。私は、四半世紀以上の時間を進行してきているこの支援観の変化を「生活モデル化」と呼んでいます。


6.最後に

以上の議論をまとめましょう。

地域包括ケアは、高齢化対策に適さない
地域包括ケアの合理的な根拠は、社会における支援観の生活モデル化である
地域包括ケアシステムの各要素の選択は、それが生活モデルに適合しているかどうかによって評価されることになる。

私たちが気をつけなければならないのは、ケアを地域化、包括化しさえすれば、生活モデルに叶うケアシステムになるか、といえばそうではないということです。基礎自治体の職員たちの多くにとって、地域包括ケアは上から降ってきた政策にみえている嫌いがあるように思います。そうしますと、「お上」がやれというからやるというだけの政策になりがちで、そこに出来上がる「地域包括ケア」は、歴史が支持するものとは無関係な地域包括ケアみたいなものになってしまう可能性があります。そうならないためには、地域包括ケアシステムとは、ケアの生活モデル化のあくまで結果にすぎないということを踏まえて頂きたいと思います。



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